ホリショウのあれこれ文筆庫

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第667話 老兵は死なず ただ消え去るのみ

序文・天皇との関わり

                               堀口尚次

 

 ダグラス・マッカーサーは、アメリカ合衆国の軍人。アメリカ陸軍元帥、連合国軍最高司令官、国連軍司令官などを歴任した。

 第二次世界大戦後、1945年から1950年まで連合国軍最高司令官GHQ〉として大日本帝国を占領した。日本における最高権力者として君臨し、各種の占領政策を行って民主化を進めたほか、国民主権・平和主義などを柱とする日本国憲法の制定に影響を与えた。

 昭和天皇マッカーサーの会談については、様々な関係者から内容が伝えられている。当事者である昭和天皇は「男の約束」として終生語らなかったが、一方のマッカーサーは多くの関係者に話し、1964年に執筆した『回顧録』でも披露している。それによると昭和天皇は「私は、国民が戦争遂行にあたって、政治、軍事両面で行ったすべての決定と行動に対する全責任を負うものとして、私自身を、あなたの代表する諸国の採決に委ねるため、おたずねした」と発言したとあり、それを聞いたマッカーサーは、天皇が自らに帰すべきではない責任をも引き受けようとする勇気と誠実な態度に「骨の髄まで」感動し、「日本の最上の紳士」であると敬服した

 1950年には朝鮮戦争における国際連合軍総司令官として仁川(インチョン)上陸作戦を成功させたが、中華人民共和国との全面戦争〈核爆弾使用〉を主張したことなどからアメリカ大統領のトルーマンと戦略が対立し、1951年に解任された。

 マッカーサーのトレードマークと言えばコーンパイプであるが、階級が上がるに従ってコーンパイプも大きくなった。現在ではこのような形のコーンパイプを「マッカーサータイプ」と呼ぶ。また、重要な会合や、自分より地位が高い者と同席する場合でも略装で臨むことが多かった。天皇との会見写真でも、夏の略装にノーネクタイというラフな格好で臨んだため、「礼を欠いた」「傲然たる態度」であると多くの日本国民に衝撃を与えた。 

 1951年、上下院の合同会議に出席したマッカーサーは、退任演説を行った。最後に、ウェストポイントに自身が在籍していた当時〈19世紀末〉、兵士の間で流行していた風刺歌のフレーズを引用して、「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」と述べ、有名になった。