ホリショウのあれこれ文筆庫

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第807話 有馬記念の由来

序文・政界とのつながり

                               堀口尚次

 

 有馬記念は、日本中央競馬会JRA〉が中山競馬場で実施する中央競馬の重賞競走〈GⅠ〉である。

 大東亜戦争後に日本に進駐し間接統治を行っていたGHQは、日本国内の競馬施行体で唯一の全国組織であった日本競馬会を独占禁止法に抵触する機関として、閉鎖を指示した。

 昭和23年7月の競馬法施行に伴い日本競馬会は解散し、以後しばらく競馬は農林省競馬部により運営されることとなった〈国営競馬〉。その後、昭和26年に自由党内の競馬小委員会において「競馬民営化論」が提唱され、同年サンフランシスコ平和条約調印により日本の主権が回復されると民営化論はさらに活発化、昭和29年には民営〈農林省監督〉による競馬施行体・日本中央競馬会の発足に至った。しかし国家財政への寄与という名目で控除率が高く設定されたこともあり、客足は地方競馬や競輪といった新たな公営競技に向き、民営化後第1回開催の売上は目標額に到達せず、その運営は前途多難なものだった。日本中央競馬会初代理事長は、第一次近衛内閣で農相を務めた有馬頼寧(よりやす)が第2代理事長に就任した。

 競馬が国営であった間、競馬関連の諸施設は部分的な補修、修理が行われていたものの予算の関係上、大規模な改修は行うことができず、なかでも中山競馬場の大スタンドは老朽化が進み危険な状態にあった。しかし当時の日本中央競馬会はその改修に充てる費用を持ちあわせていなかった。そこで新理事長の頼寧は、ときの農相・河野一郎ら政府関係者に働きかけ、「昭和35年12月31日までの間、日本中央競馬会は農林大臣の許可を得て行う臨時の競馬開催により得た収益を、政府指定の建造物に限りその改築に充てて可なり、また収益の一部を国庫に納付する義務も負わない」という旨の、「日本中央競馬会の国庫納付金等の臨時特例に関する法律」(いわゆる「有馬特例法」)成立に漕ぎつけた。

 有馬頼寧は、戦前は農政学者として活動、農民運動を支援した後農林大臣などを歴任。戦後日本中央競馬会第2代理事長として競馬界の発展に尽力、日本中央競馬会にて行われるGⅠ競走「有馬記念」の名前は有馬頼寧に由来する。中央競馬や農民運動の他、部落解放運動や卓球、プロ野球の発展にも携わった。