ホリショウのあれこれ文筆庫

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第1026話 改易・お家取り潰しの福島正則

序文・豊臣秀吉の従兄弟

                               堀口尚次

 

 福島正則は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての日本の武将で、大名。賤ケ岳の七本槍、七将の一人としても知られている。安芸国広島藩主、後に信濃高井野藩の初代藩主。

 永禄4年、市松〈幼名〉は尾張国海東郡二ツ寺村〈現・愛知県あま市二ツ寺屋敷〉で桶屋を営む福島正信の長男として生まれたという。しかし、父・正信は義父であったともいわれている。母は、秀吉のちの豊臣秀吉の母のちの大政所〉の妹秀吉の叔母〉にあたる人物である。少年に成長すると、母を通じた縁で秀吉の小姓になる。

 元和5年、家康死後まもない頃、台風による水害で破壊された広島城の本丸・二の丸・三の丸及び石垣等を無断修繕したことが武家諸法度違反に問われる正則はその2ヶ月前から届けを出していたが、先年にも一国一城令発布後にもかかわらず新規に築城を行ったとして、毛利家から報告を受けた幕府より該当城の破却を命じられた後でもあり、幕府からは正式な許可が出ていなかった。

 福島側の言い分では、雨漏りする部分を止むを得ず修繕しただけという。江戸参勤中の正則が謝罪し、修繕した部分を破却するという条件で一旦は沙汰止みになったものの、求められた「本丸以外の修築分を破却」という条件に対し、正則は本丸の修築分のみ破却をおこない、二の丸・三の丸の修築分は据え置いた。これにより「破却が不十分である」と咎められる。また、人質として江戸に送るはずだった忠勝の出発を遅らせたこと、それに対して「万事親次第」と弁明を拒否するなどしたため、怒った将軍・徳川秀忠から、安芸・備後50万石は没収信濃国川中島郡中高井郡越後国魚沼郡の4万5,000石〈高井野藩〉に減転封の命令を受けることとなった。

 移封後、正則は嫡男・忠勝に家督を譲り、隠居した。出家して高斎と号した。元和6年、忠勝が早世したため、正則2万5,000石を幕府に返上した。寛永元年、正則は高井野〈長野県高山村〉で死去。享年64。幕府の検死役が到着する前に、家臣が正則の遺体を火葬したため残りの2万石も没収され福島家は取り潰された

 出生地の現在の愛知県あま市では英雄視されており、明治22年発足の正則村の由来にもなっている。現在合併により消滅・地名としても残っていない。

※筆者撮影