序文・中国東北部関東州
堀口尚次
関東庁は、関東州の租借地の統治にあたっていた日本の植民地民政機関。大正8年に軍政機関であった関東都督府が廃止され、その陸軍部が関東軍司令部、民政部が関東庁へ改組されたのに始まる。満州国成立後の1934年に在満洲大使館の中に関東局が設置されたのに伴って廃止された。
大正8年勅令94号「関東庁官制」により設置。関東都督府の軍事部門が「関東軍」として分離したことにより、民政部門をつかさどる機関として設けられた。本部は旅順。関東州の統治、南満州鉄道附属地の治安維持、南満州鉄道の業務への監督を行い、軍事的な権限は持っていなかった。設置当初、関東長官は総理大臣の監督を受ける〈渉外事項については外務大臣が監督する〉こととされたが、昭和4年の拓務省設置以降は拓務省の監督下に置かれた。昭和9年、満州事変後の在満機構改革の中で関東庁は廃止となり、在満州国大使館関東局と関東州庁に再編された。
関東軍は、大日本帝国陸軍の総軍の一つ〈昭和17年10月1日以前は軍の一つ〉。関東都督府〈関東州と南満州鉄道付属地の行政府〉の守備隊が前身。司令部は当初旅順に置かれた。満州事変を引き起こして満州国を建国し、日満議定書後は満洲国の首都である新京〈現・中華人民共和国吉林省長春市〉に移転した。
現地の佐官級参謀陣が自らの判断で、政府の不拡大方針を無視して柳条湖事件や張作霖爆殺事件などの謀略事件を強行し、その後の支那事変や太平洋戦争に至る日本の政治外交過程を大きく揺るがす要因となった。
なお、満洲事変は参謀本部や陸軍省といった当時の陸軍中央の国防政策からも逸脱していた上、陸軍大元帥で統帥権を持つ天皇の許可なしに軍事行動をする事は明確な軍規違反であったが、首謀者達は処罰されるどころか出世した。以降、関東軍は規模を拡大させ、昭和16年の最大規模時には総員74万人を数えるほどになり、昭和20年8月9日のソ連侵攻で壊滅するまで、満洲国の実質的な統治を行った。
「関東軍」の名称は、警備地であった中国東北部の関東州に由来するもので〈関東とは、万里の長城の東端とされた山海関の東側、つまり満州全体を意味する〉、日本の関東地方とは無関係である。