ホリショウのあれこれ文筆庫

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第1065話 誤解された平時忠の発言

序文・平家にあらずんば人にあらず

                               堀口尚次

 

 平時忠は、平安時代末期の公家。桓武平氏高棟流〈堂上平氏〉、兵部権大輔・平時信の子。官位は正二位・権大納言。母は二条大宮〈令子内親王〉の半物(はしたもの)〈下仕えの女房〉をしていた女性〈氏素性は未詳〉。平清盛の継室である平時子の同母弟。後白河法皇の寵妃(ちょうひ)で高倉天皇の母・建春門院は異母妹にあたる。平大納言平関白と称された。

 『平家物語』では検非違使別当(けびいしべっとう)の宣旨を三度受け、都の治安維持に手腕を発揮したことで「別当〈峻厳(しゅんげん)な検非違使別当〉」の異名をとったとしている。この話は語り本系だけにあり読み本系には存在しないので、実際にそのように呼ばれていたかは不明であるが、『百錬抄』『山槐記』には、強盗12人の右手を切り落としたという記述がある。文官でありながら厳しい処罰を実行できたのは、かつて尉・佐として実際に罪人の追捕や裁判の任務に携わっていた経験によるものと思われる。このような豪胆で激しい性格の一方で、娘を義経に嫁がせて地位の保全を図るなど、目的のためには手段を選ばない冷徹な資質も持ち合わせていた。これは実務官僚の家に生まれ、失脚を乗り越えて政界の荒波をくぐり抜けてきたことで形成されたものと考えられる。

 時忠は子の時実を実務官僚・吉田経房の娘と結婚させ、有職の公卿・中山忠親に娘を嫁がせるなど、政界に幅広い人脈を築いた。政治的には高倉天皇の側近である四条隆季土御門通親と共同歩調を取ることが多かったが、清盛や後白河院とは必ずしも親密とはいえず、時にはその意向に逆らうこともあった。これは時忠が堂上平氏の出身であり、建春門院と高倉天皇のことを最優先にしていたためと推測される。非蔵人から権大納言にまで昇進したことを考えると、政治家として稀有の人物であり、その存在は大きかったといえる。

 『平家物語』第一巻「禿髪」の節では、平家の公達には花族や英雄〈清華家=公家の家格のひとつ最上位の五摂家に次ぎ、大臣家の上の序列に位置大臣・大将を兼ねて太政大臣になることのできる主に7家を指すも面を向けて肩を並べる事はできないと述べた上で、「平大納言時忠卿」が「此一門にあらざらむ人は皆人非人なるべし」と述べたとされる。これは「平家にあらずんば人にあらず」という慣用句で知られる。ただし、この「人非人」とは「宮中で栄達できない人」程度の比較的軽い意味だという説が有力である