ホリショウのあれこれ文筆庫

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第375話 二君にまみえた福島正則

序文・秀吉から家康へ

                               堀口尚次

 

 安土桃山時代に、尾張国海東郡二ツ寺村〈現・愛知県あま市二ツ寺屋敷〉で生まれた。母は、秀吉〈のちの豊臣秀吉〉の母〈のちの大政所(おおまんどころ)〉の妹〈秀吉の叔母〉にあたる人物。少年に成長すると、母を通じた縁で秀吉の小姓(こしょう)になる。

 賤ケ岳(しずがたけ)の戦いにおいて、一番槍・一番首として敵将を討ち取るという大功を立てて賞され、「賤ケ岳の七本槍(しちほんやり)〈秀吉方で功名を上げた七人・加藤清正などの兵〉」の中でも突出して5,000石を与えられた〈他の6人は3,000石〉。

 その後、正則は石田三成らと朝鮮出兵を契機としてその仲が一気に険悪になり、の前田利家の死後、朋友の加藤清正らと共に三成を襲撃するなどの事件も起こしている。この時は徳川家康に慰留され襲撃を翻意(ほんい)〈決意をひるがえす〉したが、その経緯から家康の昵懇(じつこん)〈親しく打ち解ける〉大名の一人となる。

 こうして関ケ原の戦いから、正則は豊臣方から徳川方につくことになった。江戸時代になってから、城の改修工事の行き違いで武家諸法度違反に問われ改易され、家督は嫡男に譲り、隠居して出家した。本人の死去の際にもいざこざがあり、福島家は一旦取り潰される。さんざんな目にあっている福島正則だが、家康との関係性を示すこんな逸話が残っている。

 『家康が重病で死の床に就くと、正則は駿府を訪れて見舞ったが、家康は「一度安芸(あき)〈正則の所領〉に帰られるがよい。将軍家〈徳川秀忠〉に不服があれば、遠慮せず、兵を挙げられるが良い」と冷たく言い放った。御前を退出した正則は「今日までご奉公に努めて来たにもかかわらず、あのような申されようは情けない限りだ」と嘆き、人目も憚(はばか)らず泣いた。それを聞いた家康は「その一言を吐き出させるために、あのように言ったのだ。」と安心したという。』

 出生地の現在の愛知県あま市では英雄視されており、明治22年発足の正則村の由来にもなっている。正則村は現在合併により消滅・地名としても残っていないが、地域には正則保育園・正則小学校が現存し、近くの大江川に架かる橋は「正則橋」と名付けられている。また、あま市二ツ寺屋敷に生誕地を示す石碑が設置されており、その近くにある菊泉禅院は正則の菩提寺である。

 私は過日、生誕地の石碑を訪ね、正則の偉功に少しだけ触れてきた。