ホリショウのあれこれ文筆庫

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第297話 幕末まで続いた織田信雄の家系

序文・あのスケート選手もこの家系だろうか

                               堀口尚次

 

 織田信雄(のぶかつ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。大和宇陀松山藩の初代藩主。永禄元年、尾張国丹羽郡小折〈現在の愛知県江南市〉の生駒屋敷で織田信長の次男として生まれる。

 天正7年、は信長に無断で自身で8000人、家臣に1500人の兵を率いさせ、伊賀国に3方から入り伊賀惚国一揆を攻めたが、伊賀十二人衆と呼ばれる自治集団に大敗し、殿軍(でんぐん)〈しんがりの部隊〉の家臣を討ち取られた。これを受けて信長に「親子の縁を切る」とまで書状で脅され、叱責された。

 天正10年、信長が家臣の明智光秀によって討たれ〈本能寺の変〉、その後には織田家臣の羽柴秀吉が光秀を討つ〈山崎の戦い〉。本能寺の変に際して近江国甲賀郡土山まで進軍したものの、戦わないまま撤退した。その後、東国において徳川家康後北条氏らとのあいだで甲斐・信濃の武田遺領を巡り発生した天正壬午(てんしょうじんご)の乱では、信孝〈信長三男〉とともに双方の和睦を仲介した。戦後の清須会議兄・信忠亡き後の織田家の後継者になろうとするものの、結局、織田家当主は信秀〈信忠の嫡男・信長の孫〉となり、信雄は後見役となった。

 この後信雄は、羽柴秀吉に臣従し、織田家の当主として捉えられた。そして小田原征伐後北条氏討伐〉にも従軍し、伊豆韮山城攻めから、小田原城包囲軍に転属し、武功をあげる。しかし信雄は、秀吉より戦後の論功行賞で、家康旧領〈駿遠三甲信5ヵ国〉への移封命令を、父祖の地の尾張からの移動を嫌がり拒否したことから、秀吉の怒りを買って改易〈現職の解任〉される信雄は、流罪となり出家している。

 関ヶ原の戦いでは、大坂にあって傍観的態度に終始しているが、大阪冬の陣直前に徳川方へ転身する。当時、信雄が豊臣方の総大将になるとの噂もあった。のちに家康から大名に取り立てられていることから、大阪城内での情報を流す間者(かんじゃ)〈スパイ〉であり、その働きが評価されるほどであったと推察される。

 織田家を天下人として継続することは叶わなかったが、信雄の生き様は大変興味深いものがある。「尾張」に拘(こだわ)ったところなどもおもしろい。

 数多くいた信長の息子の中で、江戸時代に大名として存続したのは信雄の系統だけである。天国で「信長」と「信雄」は仲良くやっているだろうか。f:id:hhrrggtt38518:20220413052556j:plain