序文・周囲に与える破壊的威力
堀口尚次
ビキニ環礁は、かつて日本委任統治下南洋諸島の1島で、1945年8月15日のアメリカ合衆国への割譲以降、1946年7月1日のアメリカ合衆国による第二次世界大戦後の最初の核実験〈原子爆弾実験〉と、それ以降1958年まで23回の核実験〈原子爆弾および水素爆弾〉が行われた環礁である。現在はマーシャル諸島共和国に属する。また、1946年7月の原子爆弾の実験が由来となって水着のビキニの名称が生まれた。
ビキニ島とも呼ばれ、第二次世界大戦前の日本の海図にはピキンニ島と記述されている例もある。23の島嶼(とうしょ)〈大小の島〉からなり、礁湖(しょうこ)の面積は594.1平方キロメートル。1946年から1958年にかけて、太平洋核実験場の一つとしてアメリカ合衆国が23回の核実験を行った。2010年、第34回世界遺産委員会において、ユネスコの世界遺産リスト〈文化遺産〉に登録された。マーシャル諸島共和国初かつ唯一の世界遺産となった。1946年7月にアメリカ合衆国は、前年8月15日の日本の降伏に伴う割譲によりアメリカ合衆国の信託統治領となったばかりの旧南洋群島ビキニ環礁を核実験場に選んだ。それは歴史的に核実験場の多くが本国の人口密集地ではなく、旧ソ連カザフ、中国新疆(しんきょう)、フランス旧植民地アルジェリア、仏領ポリネシアといった地域であったことと同様であり、核植民地主義の観点から批判される。
住人170人は無人島のロンゲリック環礁に強制移住させられたが、漁業資源にも乏しく、飢餓に直面した。1948年にアメリカ軍弾道ミサイル基地クワジャリン環礁に寄留し、さらに無人島リキ島へと強制移住させられた。同年、実験場が隣のエニウェトク環礁に変更された。1954年には再度実験場がビキニ環礁に戻り、核実験は1958年7月まで続けられた。この12年間に、23回の核実験が実施された。
1946年7月1日の原爆実験〈クロスロード作戦〉の直後の1946年7月5日にレイ・ルアールが、その小ささと周囲に与える破壊的威力を原爆にたとえて、ビキニと命名してこの水着を発表した。ビキニの名称は、誤って「水爆実験になぞらえた」と言われることがある。ビキニ環礁における最初の水爆実験は1954年3月1日のもの〈ブラボー実験〉で、この水着の発表の8年後である。