ホリショウのあれこれ文筆庫

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第952話 幻の三布告「日本國民ニ告グ」

序文・公用語が英語になるところだった

                               堀口尚次

 

 三布告とは、昭和20年9月2日に連合国軍最高司令官総司令部GHQから出された日本占領政策の最初の布告である。日本国民に直接布告される予定であったもので、GHQによって、占領下の日本に軍政を直接敷くことを目的としたものであるが、ジャパン・ロビーの尽力や同じ占領行政下にあったドイツと事情が異なっていたこともあり、ごく一部の例を除いて白紙になった

 1945年5月7日、4月3日に太平洋戦線の全アメリカ陸軍部隊の総司令官に就任していたダグラス・マッカーサー陸軍元帥が、将来の日本における占領統治の最高責任者に決定し、マッカーサーの下で統治機構の骨組みが急速に形成されていくこととなった。ところが、「日本の突然の崩壊や降伏に備えて」かねてから「ブラックリスト作戦」と呼ばれる占領統治計画案を検討・作成していたにもかかわらず、いざ日本の降伏間近となった段階になった時点ですら、そのことが案の作成者の予想よりも早かったのか、機構の整備は十分ではなかった。またポツダム宣言には、GHQがどのような形で日本を統治するのかについては、ぼやかした表現でしか記されていなかったし、アメリカ政府自体もまた、占領方針に関しては確定していなかった。そしてそのこと、統治形式こそが日本政府の当座の一大関心事であった。

 戦艦「ミズーリ」艦上での日本の降伏文書調印式も終えた9月2日の午後4時過ぎ、終戦連絡事務局横浜事務局長の鈴木九萬は、占領政策担当でマッカーサーの副参謀長のリチャード・マーシャル陸軍少将から、当時は横浜税関におかれていた連合軍最高司令部に出頭するよう命じられる。マーシャルは鈴木に対し、連合国軍がいずれは東京に進駐することを告知した上で、以下の布告を9月3日午前10時に発表する、と通告した。これがいわゆる「三布告」であった。

 布告原文は「マッカーサーの名において」発せられ、「日本國民ニ告グ」で始まり、概ね以下のような内容であった。

『立法・司法・行政の三権は、いずれもマッカーサーの権力の管理下に置かれ、管理制限が解かれるまでの間は、日本国の公用語を英語とする。日本の司法権GHQに属し、降伏文書条項およびGHQからの布告および指令に反した者は軍事裁判にかけられ、死刑またはその他の罪に処せられる。日本円を廃し、B券と呼ばれる軍票を日本国の法定通貨とする。』 

 当初計画では布告が発表されて30分後にあたる9月3日午前10時半、重光とマッカーサーの対談が始まる。重光は、布告は「天皇制の維持と政府を認めている」ポツダム宣言に反し、国民も政府を信頼していることを切り出したうえで、布告に関して日本は認めがたく、行政上の問題が生じても政府がタッチできないので混乱が巻き起こるだろうから、布告は受け入れがたいと主張。これに対してマッカーサーは、日本は敗戦国ゆえに課せられた義務は必ず遂行するべきであり、自分もそれを期待していると説いた一方で、日本を破壊したり国民を奴隷にすることは考えておらず、布告は日本政府から発してもよいと述べ、要は政府次第であると返答した。ここで参謀長のリチャード・サザランド陸軍少将が重光の意図をマッカーサーに伝え、布告を「日本政府に対する総司令部命令」に変えるよう進言した。はたして布告は総司令部命令に差し替えられ、同時に布告中止の総司令官命令も発せられて軍政の施行は中止となった、はずであった。

 東京湾要塞の一角として軍事上の要衝である千葉県館山市だけは、9月3日から4日間の軍政が敷かれた。8月31日午前、アメリカ第8軍先遣隊の一部235名が館山に上陸したが、この日に上陸した部隊の風紀はよくなく、9月1日にかけて乱暴狼藉、物品略奪および一般人の拉致暴行が合計36件記録された。次いで9月3日9時20分、上述の重光・マッカーサーの会談からさかのぼること約1時間前、アメリカ第8軍第11軍団第112騎兵連隊約3,500名が館山に上陸し、司法・商業・娯楽および教育に関する制限令を次々に発して事実上の軍政を開始した。市民の夜間外出も午後7時から午前5時までの間は禁止となった。館山の終戦連絡委員会はこの事態に驚き、「〈館山での軍政は〉ポツダム宣言の条項と矛盾し、一般の市民生活に大きな障害を与えている」旨を日本政府に伝えた。9月5日には一部報道機関も館山での軍政を伝えたものの、翌9月6日に訂正報道があり軍政が「否定」された。9月7日にいたり、学校の再開や慰安施設の許可などが出され、事実上の軍政は一応の終わりを告げた。

 この布告がそのまま実施されていれば、日本本土も沖縄と同じ扱いを受けていたことになることも考えられたが、上述のように重光・マッカーサー会談の結果、館山での4日間を除いて日本本土における軍政の施行はなくなり、ポスターもすべて回収されて処分され、B円も使用にこだわる部局との調整を経て、概ね回収された。