ホリショウのあれこれ文筆庫

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第951話 将門塚の祟り

序文・GHQも舌を巻いた

                               堀口尚次

 

 将門(まさかど)塚とは、東京都千代田区大手町にある、平将門を祀るである。かつては盛り土があったことから、古墳であったと考えられている。

 この地はかつて武蔵国豊嶋郡芝崎村と呼ばれた。住民は長らく将門怨霊に苦しめられてきたという。諸国を遊行回国中であった遊行二祖他阿真教が徳治2年、将門に「蓮阿弥陀仏」の法名を贈って首塚の上に自らが揮毫(きごう)した板碑を建立し、かたわらの天台宗寺院日輪寺を時宗の芝崎道場に改宗したという。

 築土神社神田神社同様に、古くから江戸の地における霊地として、尊崇と畏怖とが入り混じった崇敬を受け続けてきた。この地に対して不敬な行為に及べば祟りがあるという伝承が出来た大正12年関東大震災後に都市再開発として大蔵省の仮庁舎を建てようとした際、工事関係者や省職員、さらには時の大蔵大臣・早速整爾(はやみせいじ)の相次ぐ不審死が起こったことで、将門の祟りが省内で噂されることとなり、省内の動揺を抑えるため仮庁舎を取り壊して鎮魂碑を立てた。昭和3年には大蔵省が主催して鎮魂祭を行っている。 しかし、早速が大蔵大臣に就任、それから程なくして亡くなったのは仮庁舎建設の3年後の大正15年であり、仮庁舎建設には関わっていない。また、工事部長だった矢橋健吉が死亡したのは建設から4年後の昭和2年である。 さらに、大蔵省庁舎が落雷による火災で焼失したのは、17年後の昭和15年の事であり、この日都内では20ヶ所で落雷していて、航空局に落雷して発生した火災が延焼したものであった。

また、第二次世界大戦後に戦災復興都市計画として、GHQが丸の内・大手町周辺の区画整理にとって障害となるこの地を撤去・造成しようとした時、不審な事故が相次いだため、計画を取り止めた。アメリカ軍のブルドーザーが作業中に横転し、運転手が投げ出されて死亡。それまでも事故があり日本人の労務者に怪我人が出ていたので付近を調査したところ、転覆したブルドーザーの前に半分埋まっている墓のようなものが見つかり大騒ぎとなった。当時町内会長であった遠藤政蔵により、将門の首塚の碑であることが判明し、GHQ当局に陳情を重ねた結果、塚の取り壊しが中止された。

 それらの結果、大手町周辺が高層ビル街へと発展する過程においても、首塚は取り壊しや移転を免れて残ることとなり、現在でも毎日、香華の絶えない程の崇敬ぶりを示しており「史蹟将門塚保存会」が設立され維持管理をしている。