序文・弘法大師の功徳
堀口尚次
衛門(えもん)三郎は、四国霊場にまつわる伝説上の人物。
天長年間の頃の話である。伊予国を治めていた河野家の一族で、浮穴(うけな)郡荏原(えばら)郷〈現在の愛媛県松山市恵原町・文殊院〉の豪農で衛門三郎という者が居た。三郎は権勢をふるっていたが、欲深く、民の人望も薄かったといわれる。あるとき、三郎の門前にみすぼらしい身なりの僧が現れ、托鉢をしようとした。三郎は家人に命じて追い返した。翌日も、そしてその翌日と何度も僧は現れた。8日目、三郎は怒って僧が捧(ささ)げていた鉢を竹のほうきでたたき落とし〈つかんで地面にたたきつけたとする説もあり〉、鉢は8つに割れてしまった。僧も姿を消した。実はこの僧は弘法大師〈空海〉であった。
三郎には8人の子がいたが、その時から毎年1人ずつ子が亡くなり、8年目には皆亡くなってしまった。悲しみに打ちひしがれていた三郎の枕元に大師が現れ、三郎はやっと僧が大師であったことに気がつき、何と恐ろしいことをしてしまったものだと後悔する。
三郎は懺悔の気持ちから、田畑を売り払い、家人たちに分け与え、妻とも別れ、大師を追い求めて四国巡礼の旅に出る。二十回巡礼を重ねたが出会えず、大師に何としても巡り合い気持ちから、今度は逆に回ることにして巡礼を続けた。その途中、阿波国の焼山寺近くの杖杉(じょうしん)庵で病に倒れてしまう。死期が迫りつつあった三郎の前に大師が現れたところ、三郎は今までの非を泣いて詫びた。大師が「望みはあるか」と問いかけると、三郎は「来世には河野家に生まれ変わり人の役に立ちたい〈石手寺刻版には「伊予の国司を望む」〉」と託して息を引き取った。大師は路傍の石を取り「衛門三郎」と書いて、左の手に握らせた。天長8年10月〈石手寺刻版では天長八年辛亥のみ。杖杉庵縁起では天長8年10月20日。〉のことという。
翌年、伊予国の領主、河野息利(おきとし)に長男の息方(おきかた)が生まれるが、その子は左手を固く握って開こうとしない。息利は心配して安養寺の僧が祈願をしたところやっと手を開き、「衛門三郎」と書いた石が出てきた。その石は安養寺に納められ、後に「石手寺」と寺号を改めたという。石は玉の石と呼ばれ、寺宝となっている。
異説もいくつかあり、荏原ではなく寺の掃除をしていた時とするものもある。また、空海に再会したのは20回順打ちしたあとの3回目の逆打(ぎゃくう)ちの途中とする話や、「石」は衛門三郎が旅に出たときに持っていた黄金の塊を空海に渡そうとしたら、いつのまにかただの石になっていて空海が再び衛門三郎に握らせた、という話もある。
また石を握って出生した男児については、成人後商人となったとの伝承もある。
この衛門三郎の伝説が四国遍路の始まりとして広く知られている。亡き子の菩提を弔い、悪業を悔い、大師にわびるための巡礼という回向を重ねることにより、やがて大師にめぐり合えるという話から、大師が今も四国を回っておられ、一心にお四国めぐりをするうち、いずれかどこかで大師に巡りあえるという信仰や、いわゆる「逆打ち」などの言い伝えにつながっている。なお、衛門三郎の「石」は現在も石手寺〈松山市〉に奉られている。 松山市恵原町には、衛門三郎の八人の子を祀ったと言われる「八塚(やつづか)〈「八ツ塚」という表記も〉」が今も点在している。
尚この衛門三郎は、四国を廻るお遍路の起源と言われ、お大師様に会うために編み出した「逆打ち」も、三郎が起源といわれている。順打ちだと永遠に出会えないかもしれませんが、逆打ちだと、必ずどこかで1回はお大師様に出会えると信じられているのは、三郎の逸話によるものかもしれない。
【私見】愛知県東海市に在住の筆者は、四国霊場巡礼に以前から興味があったが、会社を定年退職した現在もお遍路の実施には至っていない。代わりにといっては語弊があろうが、在住の愛知県知多半島には「知多四国霊場88ヶ所〈番外+開山所等含めて98ヶ寺〉」があり、昨年から地元大手私鉄の名古屋鉄道が企画する「弘法大師御生誕1250年記念・歩いて巡拝(マイル)知多四国」に参加している。1年4カ月をかけ、18回にわけての巡礼であり、2024年2月で13回を達成した。その中で直近の2月10日の知多郡南知多町の31番札所・利生院を訪れた際に、「弘法大師の功徳・生れかわった衛門三郎」の看板を目にし、今回の記事となった。自宅から電車に乗り、時には駅からバス等も利用しての巡礼であるが、歩行距離は毎回平均で10km・所用時間は毎回平均で5時間(自宅~自宅)程度といったところだが、夏には熱中症との戦い・海岸道では砂嵐との戦い・冬場は寒さとの戦いだ。御朱印は頂くが、般若心経もあげないし、お札も入れないというスタンプラリー感覚での巡礼〈巡礼といえるのか?〉。満願したいつの日か、逆打ちで周ればお大師様にお会いできるだろうか。同行二人。合掌。