ホリショウのあれこれ文筆庫

歴史その他、気になった案件を綴ってみました。

第995話 斗南藩士となった元新選組・斎藤一

序文・旧会津藩と運命を共に

                               堀口尚次

 

 斎藤一(はじめ)天保15年 - 大正4年〉は、日本の武士〈新選組隊士〉、警察官。階級は警部。勲等は勲七等青色桐葉章。幕末期に新選組で副長助勤、四番隊組長、三番隊組長、撃剣師範を務める。一時期御陵衛士に入隊。戊辰戦争では旧幕府軍に従い新政府軍と戦う。明治維新後警視庁の警察官となり、西南戦争では警視隊に所属して西郷軍と戦う。退職後、東京高等師範学校の守衛、東京女子高等師範学校の庶務掛兼会計掛を務める。出自、経歴は不明な点も多い。

 斎藤新選組会津藩の指揮下に入り、閏4月には白河口の戦いに参加。8月の母成峠の戦いにも参加した。敗戦により若松城下に退却。土方と合流したのはこの退却の最中、猪苗代でのことだった。その後、土方らは庄内へ向かい、大鳥ら幕軍の部隊は仙台に転戦したが、斎藤会津に残留し、会津藩士とともに城外で新政府軍への抵抗を続けた。9月に会津藩降伏したあとも斎藤は戦い続け、容保(かたもり)が派遣した使者の説得によって投降した。降伏後、捕虜となった会津藩士とともに、最初は旧会津藩領の塩川、のち越後高田謹慎生活を送った

 会津藩は降伏後改易され、会津松平家は家名断絶となったが、明治2年に再興を許された。知行高は陸奥国内で3万石とされ、藩地は猪苗代か下北半島松平家側で選ぶこととされた。東京で捕虜となっていた旧藩幹部は、越後高田で謹慎していた藩士らに諮(はか)ることなく下北半島を選択。藩名は新たに斗南藩命名され、斎藤斗南藩として下北半島へ赴いた

 斎藤斗南藩領の五戸に移住し、篠田やそと結婚した。篠田家は『諸士系譜』からも確認される名家で、会津藩士としては大身(たいしん)に属する。白虎隊士中二番隊に属し、飯盛山で自刃した篠田儀三郎とは遠縁にあたる。後年の明治7年、元会津藩大目付・高木小十郎の娘・時尾と再婚した。元会津藩主・松平容保が上仲人、元会津藩家老の佐川官兵衛山川浩、倉沢平治右衛門が下仲人を務めた。この時、氏名を藤田五郎に改名している。時尾との間には、長男・勉、次男・剛、三男・龍雄の3人の子供を儲けることになる。

 明治7年、東京に移住。警視庁に採用される。明治10年、九州で士族反乱西南戦争」が起こる。2月、内務省警視局で警部補に昇任。5月、別働第三旅団豊後口警視徴募隊二番小隊半隊長として西南戦争に参加斬り込みの際に敵弾で負傷するも奮戦して、東京日日新聞に報道される