ホリショウのあれこれ文筆庫

歴史その他、気になった案件を綴ってみました。

第349話 自衛官護国神社合祀事件

序文・殉職と信教の自由の狭間で

                               堀口尚次

 

 自衛官護国神社合祀事件は、殉職した自衛官山口県護国神社に合祀した行為が、信教の自由を侵害され、精神の自由を害されたとして遺族の女性が、合祀の取消し請求を求めた訴訟である。最終的に最高裁判所は訴えを認めなかったが、最高裁判事の意見が分かれる、いわゆる合議割れになったことや、下級審が行った事実認定を最高裁が覆すなど一部に異議がある。

 第二次世界大戦まで軍人が戦死した場合には靖国神社に合祀されていた。戦後になって自衛隊員が公務で殉職した場合には靖国神社へは合祀されなくなったが、従来のように隊員の出身地にある護国神社に合祀されていた。

 同訴訟の原告の夫であった自衛隊員は昭和43年、公務中に発生した交通事故で殉職した。葬儀は仏教式で行われたが、原告の女性は従来から信仰してきたキリスト教の教会に夫の遺骨の一部を納め、故人を追悼した。

 1審の山口地方裁判所および控訴審の広島高等裁判所の判決は、原告勝訴の判決であった。事実認定では県隊友会と地連の一連の行為は共同のものであり、国家公務員である地連職員の行為が憲法で禁止される宗教的活動に該当し、政教分離原則に違反するとして違法としたものである。

 最高裁判所は、下級審の判決を破棄し原告敗訴の判決を下した。事実認定として、自衛官の近縁の血縁者は仏教徒自衛官自身は自分の宗教観について明言しておらず無宗教と考えられ、近い親戚の中でキリスト教徒は原告である妻のみである。また原告は自衛官の遺骨の一部を他の遺族に無断で持ち出し、教会に持って行ったりなどして他の遺族と軋轢が生じていた。多数意見によれば、合祀のための申請行為の共同性に対しては、地連職員の行為は事務的な協力であり、直接合祀を働きかけた事実はないとして、合祀申請は県隊友会による単独行為であるとした。そのため地連職員の行為は宗教的活動には当たらないとした。よって合祀申請しても公務員である自衛隊職員〈国家〉は関係ないから政教分離の問題にはならない。また精神的苦痛に対しては、自己の信仰生活が害されたことによる不快感に対して損害賠償などを認めることは、かえって相手方の信教の自由を害することになるとして、強制的に信教の自由が妨害されないかぎり、寛容であるべきである。以上のことから原告の信仰生活を送る利益を法的利益として直ちには認められないとして敗訴判決を出した。

※画像と本文は関係ありません

第348話 朔平門外の変

序文・天皇のお膝元での事件

                               堀口尚次

 

 幕末の桜田門外の変大老井伊直弼暗殺〉や坂下門外の変〈老中・安藤信正襲撃〉はいずれも江戸城の門外で起きた事件で有名だが、朔平(さくへい)門外の変は、京都御所の門外で起きた公家暗殺事件である。

 破約攘夷を唱える公家の指導者であった姉小路公知(あねがこうじきんとも)〈右近衛少将、国事参政〉が、禁裏朔平門外の猿が辻で暗殺された事件。現場に残された太刀から薩摩藩田中新兵衛に容疑がかかったが、京都奉行所に監禁された新兵衛は釈明せずに自刃したため、暗殺者は今なお不明。

 幕末において要職にある殿上人(てんじょうびと)〈公家の幹部〉が暗殺された事件は空前絶後であり、当時の中央政局に大きな影響を与え、同年の八月十八日の政変尊攘派公家と背後の長州藩を朝廷から排除が起きるきっかけにもなった。

 この事件が起きる以前にも、治安の弛緩や政局の激化に伴い江戸では桜田門外の変坂下門外の変といった政治的テロ事件が続発、また京都では「天誅(てんちゅう)」と称する要人襲撃事件が相次いでいた。しかし被害者の多くが幕府関係者ないし親幕府派と見られた公家の諸大夫等の家臣・武士・地下人(じげにん)・学者・庶民であり、加害者側が破約攘夷派と思われるのに対し、朔平門外の変の場合、被害者の姉小路が殿上人であり、さらに当時の破約攘夷派の代表的存在であった点はきわめて異例であった。

 この時期の政治状況は、しばしば「尊王攘夷派」と「公武合体派」との対立構造で語られることが多いが、実際には「尊王」対「佐幕」や「攘夷」対「開国」などと単純に対極化できる性質のものではなかった。いわゆる尊王自体は朝廷からの政権委任を支配の正当性とする幕府にとっても尊重すべき概念であり、国防意識という意味においての攘夷概念は、当時の主要な政治勢力のいずれもが持っていた大前提であった。

 当時の主要な政治勢力はいずれも「攘夷」をいかにすすめるかを最大の大義名分としており、天皇は最大の大義名分を持つ対象の意味で「玉(ぎょく)」と呼ばれ、対立の激化の原因にもなっていた。孝明天皇自身は通商条約を容認しない攘夷論者であったが、即刻外国船を打ち払うほど過激ではなく、内政に関しては大政委任論〈将軍は天皇より大政〈国政〉を委任されてその職任として日本国を統治している〉をもって幕府の統治を強く支持していた。 

 

第347話 浅草フランス座

序文・お笑いの殿堂

                               堀口尚次

 

 浅草フランス座演芸場東洋館は、東京都台東区浅草六区に所在する演芸場。東洋館の通称で営業している。東洋興業株式会社経営。かつては長い間ストリップ劇場として営業していた。渥美清東八郎萩本欽一坂上二郎ビートたけしなどを輩出したことで知られる。

 舞踊中心の上品なストリップと幕間の爆笑コントを売り物にしていた。コントを演じていたのが芸人たちで、いわゆる浅草芸人としていずれも大スターとなった。無名時代の井上ひさし〈小説家〉が劇場座付き作者をつとめたことがあり、照明係など雑用をこなしながら、同劇場のコント台本を担当した。井上はこの劇場のことを「ストリップ界の東京大学」と言っていた。だがそんな彼らも深見千三郎ビートたけしの師匠〉などを除き、ほとんどはテレビの世界に移り、浅草のスターから日本のスターへとのしあがっていった。

 北野武は、ここですさまじくキレのあるコントを演じていた「浅草の師匠」こと深見に弟子入りし、芸人への第一歩を踏み出す。エレベーターボーイをしながらコントやタップダンスを学んだ。また、兼子二郎後のビートきよしと出会い、後の漫才ブームの牽引役となる「ツービート」結成のきっかけとなった場所でもある。たけしは大スターになってから自分の弟子〈当地浅草での修行にちなみ浅草キッド命名〉を修行に出す。しかし、支配人の岡山がろくに給料を支払わなかった事から劇場への恨みを募らせ、機材をめちゃくちゃに破壊するなどの報復を行い、最終的にはたけし自身も激怒して軍団員を引き揚げている。

 しかしながら、猥雑(わいざつ)が売り物の関西系ストリップが全盛になるにつれ「健全すぎる」フランス座の舞台はサービス不足とみなされ、浅草の斜陽化もあり客足が減る一方であった。東洋興業がとった決断はストリップから完全に手を引く事であった。2000年にストリップ興行を打ち切る。同年改装の上、落語、講談、浪曲以外のいろもの寄席「浅草フランス座演芸場東洋館」に改称、現在に至る。

 無名時代のビートたけしが、フランス座のエレベーターボーイをしていた話しはあまりにも有名。お金のないたけしは、ストリップの踊り子さんに可愛がってもらったようだ。古き良き浅草が、そこにはあったのだ。


 

第346話 飛び地行政区の不思議

序文・地図で見ると一目瞭然

                               堀口尚次

 

 木曽岬(きそさき)は、三重県の北東端、木曽三川の河口部に位置する町。東は愛知県と接し、西は木曽川を挟んで桑名市長島町と接する。また、南は伊勢湾の最北部に面している。桑名郡に属する唯一の自治体である。三重県の町だが、郵便配達は隣の愛知県弥富市にある弥富郵便局が行う。このため、町内の郵便番号は三重県の51ではなく、愛知県内の49で始まるものが使われる。NTT市外局番は弥富市と同じ(0567)を使用する。木曽岬干拓は、木曽川河口にある干拓地。三重県桑名郡木曽岬町桑名市、愛知県弥富市にまたがる。総面積約444ha。境界問題のもつれなどから、長らく未利用地のままになっていた事で知られる。町境は住民の利便性や土地利用の効率性などから、木曽崎町の一区画を四角く切り取るような形で桑名郡長島町になっている。

 墨俣(すのまた)は、かつて岐阜県安八郡にあった町である。平成18年に養老郡上石津町とともに大垣市編入された。編入後は大垣市地域自治区墨俣町地域自治区」となっている。 上石津(かみいしず)は、岐阜県養老郡にあった町である。同じく、安八郡墨俣町とともに大垣市編入され、廃止された。現在は同市の地域自治区「上石津町地域自治区」となっている。編入先の大垣市とは隣接していないため同市の飛び地となった。なお、墨俣町も同様に飛び地となった。

飛び地として、岐阜県羽島市桑原町西小薮は、羽島市のほかの地区とは長良川で分断され、海津市のみと隣接している。橋も同地区内にはかけられていないため、羽島市のほかの地区との行き来には海津市の経由が必須となっている。なお、近隣に南濃大橋があるため、行き来は容易である。

 岐阜県美濃加茂市牧野、岐阜県加茂郡八百津町上牧野 は、双方の飛び地が存在し、境界線も複雑に入り乱れている。和知(わち)は、かつて岐阜県加茂郡に存在した村である。現在の加茂郡八百津町西部に該当し、木曽川北岸の地域である。美濃加茂市牧野と八百津町上牧野との境で、一部複雑な境界線となっている箇所がある。これは、かつてこの地域は和知村の一部であり、編入分離を行なったさいに境界線が複雑化した名残である。

 いずれも「平成の大合併」が生みだした産物と思われるが、同じ町内が地理的に隣接していな感覚とは、どんなものなのだろうか?不便はないのか?

 

第345話 門前の小僧習わぬ経を読む

序文・犬も歩けば棒に当たる

                               堀口尚次

 

 「門前の小僧習わぬ経を読む」は『いろはかるた』であり、ことわざを使っているが、内容は江戸、京都・大阪など上方、尾張などで各々異なっている。この場合〈『も』のいろはかるた〉は、「門前の小僧習わぬ経を読む」が江戸で、「餅は餅屋」が上方、「桃栗三年柿八年」が尾張だという。

 因みに、「門前の小僧習わぬ経を読む」の意味は、〈寺の門前で遊んでいる小僧でも、いつも見聞きをしていれば、習わない経が読めるようになるように〉繰り返し見聞きできる環境におけば、自然とその知識がつくようになるものであるということ。

 「餅は餅屋」は、物ごとにはそれぞれの専門家があり素人の及ぶところではないといういこと。餅はそれぞれの家庭でつくことが多く、自家製のものと業者のものを比較しやすかったことが影響しているものと思われる。江戸後期には餅専門の業者が多くなり、街道筋で餅菓子を売る者のほか、暮れに何人か組になって各戸を訪れ、歌などを交えながら正月用の餅をつく光景も珍しくなかったといわれる。

 「桃栗三年柿八年」は、『桃や栗は植えてから3年たたないと実を結ばず、柿にいたっては8年もの歳月が必要になるのだ』ということを表しており、これが転じて『簡単には一人前になれず、ひとかどの人物になるには努力が必要だ』という意味合いで使われるようになった。『桃栗三年柿八年』が、このことわざの全文だと思っている人はたくさんいるのではないか。しかし、実は続きが存在する。語り継がれている代表的なもので、「桃栗三年柿八年 柚子の大馬鹿十八年」「桃栗三年柿八年 梨の馬鹿目が十八年」「桃栗三年柿八年 梅は酸い酸い十三年  梨はゆるゆる十五年 柚子の大馬鹿十八年 みかんのマヌケは二十年」これらを見ると、後に続く植物ほど果実の収穫に時間がかかるものとなっている。そして、なかなか実を付けないことに厳しい表現が用いられている。そのほかに、次のようなものもある。「桃栗三年柿八年 枇杷は早くて十三年」「桃栗三年柿八年 梅は酸いとて十三年 柚子は九年花盛り 枇杷は九年でなりかねる」これらには辛辣(しんらつ)な表現は見られない。植えてから収穫までの期間について、誰にでも分かりやすく伝えるために作られているようだ。

 

第344話 庚午事変・稲田騒動

序文・明治になってもまだ切腹刑はあった

                               堀口尚次

 

 庚午(こうご)事変は、明治3年に当時の徳島藩淡路洲本城下で洲本在住の蜂須賀家臣の武士が、筆頭家老稲田邦植の別邸や学問所などを襲った事件。稲田騒動とも呼ばれる。結果的に淡路島の帰属をめぐる重要な事件となり、この事件の影響で淡路島は再び徳島県から離れ、兵庫県編入された。

 稲田家は徳島藩の家臣としては破格の待遇を受けてきたが、幕藩体制が進むにつれ、蜂須賀家と稲田家の関係は対等関係から主従関係へ変化することとなった。幕末期、徳島藩側が佐幕派であったのに対し稲田家側は尊王派であり、稲田家側の倒幕運動が活発化していくにつれ、徳島藩側との対立をさらに深めていくようになった。そして、明治維新後、徳島藩の禄制改革により徳島蜂須賀家の家臣は士族とされたが、陪臣の稲田家家臣は卒族とされたことに納得できず、自分たちの士族編入徳島藩に訴えかけた。それが叶わないとみるや、今度は洲本を中心に淡路を徳島藩から独立させ、稲田氏を知藩事とする稲田藩〈淡路洲本藩〉を立藩することを目指す〈そうすれば自分たちは士族になる〉ようになり、明治政府にも独立を働きかけていくようになる。稲田家側は幕末時の活躍により、要求はすぐ認められると目論んでいた。

 明治3年、稲田家側のこうした一連の行動に怒った徳島藩側の一部過激派武士らが、洲本城下の稲田家とその家臣らの屋敷を襲撃した。また、その前日には徳島でも稲田屋敷を焼き討ちし、脇町周辺にある稲田家の配地に進軍した。これに対し、稲田家側は一切無抵抗でいた。これによる稲田家側の被害は、自決2人、即死15人、重傷6人、軽傷14人、他に投獄監禁された者は300人余り、焼き払われた屋敷が25棟であった。

 結局、政府からの処分は、徳島藩側の主謀者ら10人が斬首〈後に藩主の嘆願陳情により切腹になった〉。これは日本法制史上、明治以降において行われた切腹刑の事例である。〈死刑執行方法としての切腹明治6年廃止〉首謀者数名が蓮花寺にて切腹した。八丈島への終身流刑は27人、81人が禁固、謹慎など多数に至るに及んだ。 稲田家側に対しては、この事件を口実に北海道静内と色丹島の配地を与えるという名目で、兵庫県管轄の士族として移住開拓を命じ、彼らは荒野の広がる北の大地へと旅立っていった。 

 

第343話 謀反の疑い・源範頼

序文・ここにもまた頼朝の犠牲となった兄弟が

                               堀口尚次

 

 源範頼(のりより)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将。河内源氏の流れを汲む源義朝の六男。源頼朝の異母弟で、源義経の異母兄。

 遠江(とおとうみ)国蒲御厨(かばのみくりや)〈現・静岡県浜松市〉で生まれ育ったため蒲冠者(かばのかんじゃ)、蒲殿とも呼ばれる。その後、藤原範季(のりすえ)に養育され、その一字を取り「範頼」と名乗る。治承・寿永の乱において、頼朝の代官として大軍を率いて源義仲平氏追討に赴き、義経と共にこれらを討ち滅ぼす大任を果たした。その後も源氏一門として、鎌倉幕府において重きをなすが、のちに頼朝に謀反の疑いをかけられ伊豆国に流された。

 建久4年、曾我兄弟の仇討ちが起こり、頼朝が討たれたとの誤報が入ると、嘆く政子に対して範頼は「後にはそれがしが控えておりまする」と述べた。この発言が頼朝に謀反の疑いを招いたとされる。ただし政子に謀反の疑いがある言葉をかけたというのは『保暦間記(ほうりゃくかんき)』〈歴史書〉にしか記されておらず、また曾我兄弟の事件と起請文(きしょうもん)〈人が契約を交わす際それを破らないことを神仏に誓う文書〉の間が二ヶ月も空いている事から、政子の虚言、また陰謀であるとする説もある。

 範頼は頼朝への忠誠を誓う起請文を頼朝に送る。しかし頼朝はその状中で範頼が「源範頼」と源姓を名乗った事を過分として責めて許さず、これを聞いた範頼は狼狽した。範頼の家人が、頼朝の寝所の下に潜む。気配を感じた頼朝は、家臣に範頼の家人を捕らえさせ、明朝に詰問を行うと家人は「起請文の後に沙汰が無く、しきりに嘆き悲しむ参州(さんしゅう)〈範頼の官職が三河(みかわ)守(のかみ)で参州とは三河のこと〉の為に、形勢を伺うべく参った。全く陰謀にあらず」と述べた。次いで範頼に問うと、範頼は覚悟の旨を述べた。疑いを確信した頼朝は、17日に範頼を伊豆国に流し、修善寺に幽閉する。『吾妻鏡』ではその後の範頼については不明だが、『保暦間記』などによると誅殺(ちゅうさつ)〈罪をとがめて殺す〉されたという。ただし、誅殺を裏付ける史料が無いことや子孫が御家人として残っていることから伝説の背景になっている。

 越前へ落ち延びてそこで生涯を終えた説や、武蔵国横見郡吉見〈現埼玉県比企郡吉身町〉の吉見観音に隠れ住んだという説などがある。