ホリショウのあれこれ文筆庫

歴史その他、気になった案件を綴ってみました。

第435話 真岡郵便電信局事件

序文・旧樺太・サハリンの悲劇

                               堀口尚次

 

 真岡郵便電信局事件とは、太平洋戦争後の樺太の戦いで、真岡郵便局の電話交換手が集団自決した事件である。当時日本領だった樺太では、一方的に条約破棄したソ連軍と日本軍の戦闘が、1945年8月15日の玉音放送後も続いていた。真岡郵便局の電話交換手〈当時の郵便局では電信電話も管轄していた〉は、疎開〈引き揚げ〉をせずに業務中だった。8月20日真岡にソ連軍が上陸すると、勤務中の女性電話交換手12名のうち10名が局内で自決を図り、9名が死亡した

自決した電話交換手以外に残留していた局員や、当日勤務に就いていなかった職員からも、ソ連兵による爆殺、射殺による死者が出ており、真岡局の殉職者は19人にのぼる。

 戦後、彼女らを英霊として顕彰しようとの機運が関係者・遺族の間に起こり、地元の樺太関係者と遺族の手によって「九人の乙女の像」が建立された。

 慰霊碑の中央には、乙女達の別れの言葉「皆さん これが最後です さようなら さようなら」と刻まれている。ただし、同じく樺太にあった泊居郵便局の局長は『交換台にも弾丸が飛んできた。もうどうにもなりません。局長さん、みなさん…、さようなら。長くお世話になりました。おたっしゃで…。さようなら』だったと、碑文とは異なる証言を残している。

 また、当初、慰霊碑左側の碑文には、自決は軍の命令で、全員が自決したように書かれていた。しかし実際には軍命令は無く、生存者もいたので、碑文の記述は事実とは異なっていた。その後、公務殉職として叙勲しようとの機運が起こると、碑文は書き直され、死亡は殉職であるとされた。碑文では生存者については触れられていない。なお、9名は公務殉職として1973年3月31日付で勲八等宝冠章を受勲、靖国神社にも合祀されている。

 1968年9月5日 - 昭和天皇香淳皇后稚内市を訪問し、氷雪の門〈日本領土だった樺太で亡くなった日本人のための慰霊碑〉と九人の乙女の像の前で深く頭を垂れた。後日宮内庁よりその時の感銘を和歌に託したことが公表された。

御製「樺太に 命をすてし たをやめの 心を思へば むねせまりくる」

御歌「樺太に つゆと消えたる 乙女らの みたまやすかれと たゞいのりぬる」

 

第434話 人間魚雷「伏龍」

序文・選択条件「孤独に耐えうる者」

                               堀口尚次

 

 伏龍(ふくりゅう)は、第二次世界大戦末期の大日本帝国海軍による特攻兵器。「人間機雷」とも呼ばれる。潜水具を着用した兵士が浅い海底に立って待ち構え、棒付き機雷を敵の上陸用舟艇接触させ爆破するという特攻戦法のことである

 利用された潜水具は、昭和20年3月末に海軍工作学校が1ヶ月で試作した代物で、逼迫(ひっぱく)する資材と戦況に対応するため、出来得る限り既製の軍需品を用いて製作された。ゴム服に潜水兜を被り、背中に酸素瓶2本を背負い、吸収缶を胸に提げ、腹に鉛のバンド、足には鉛を仕込んだ草鞋(わらじ)を履いた。潜水兜にはガラス窓が付いているが、足下しか見えず視界は悪く、総重量は68kgにも及んだ。2ヶ月の短期間で、訓練用の航空機やその燃料が枯渇しつつあった海軍飛行予科練習生の生徒数に見合う3,000セットが調達される予定であった。

 待機限界水深は、棒機雷の柄が2メートルの場合は約4メートル以内、柄が5メートルの場合は7メートル以内。待機可能時間は約5時間。武装炸薬量15キロの成形弾頭である五式撃雷〈通称・棒機雷〉。刺突機雷の五式撃雷は敵の舟艇が隊員の頭上を通過しない限り有効な一撃は与えられず、機雷が爆発すれば、水を伝わる爆圧で隊員はほぼ確実に死ぬものだった。

 装備に多数の欠陥が存在し、訓練だけで多数の死者を出したが、それでも最後の砦という位置付けは変わらず、訓練は強行された。訓練中に横須賀だけで10名の殉職者を出している。

 隊員は、各鎮守府から集められた寄せ集めであった。教育中止で本土決戦に向けて防空壕を掘っていた10代後半の予科練出身者に加え、緒戦で活躍した海軍陸戦隊の古兵も投入された。一般兵では呼吸のこつが呑み込めず事故が頻発したため、航空機搭乗員として身体能力に優れた予科練が選抜されたという。 選抜条件には「孤独に耐えうる者」が重視され、本来なら家を継ぐべきはずの長男が多く選ばれた。志願制ではなく、命令であった。部隊の展開時期は10月末を目標にしていたが、途中で終戦をむかえたため、伏龍が実戦に投入されることはなかった。

 8月12日の中日新聞に元伏龍特攻隊員の方の記事があり、訓練で多発した事故に対し「誰がこんなえらいことことやれといったのかと思った」と回想する。

 

第433話 永野軍令部総長の信条

序文・本当の勇気というもの

                               堀口尚次

 

 永野修身(おさみ)は、日本の海軍軍人、教育者。最終階級および栄典は元帥海軍大将従二位勲一等功五級。第24代連合艦隊司令長官。第38代海軍大臣。第16代軍令部総長海軍の三顕職である連合艦隊司令長官海軍大臣軍令部総長を全て経験した唯一の軍人千葉工業大学の創設発案者。A級戦犯の容疑で東京裁判中に巣鴨プリズンで急性肺炎を患い、米国陸軍病院へ搬送され治療を受けたがその後死亡する。

 アメリカをはじめとする戦勝国真珠湾作戦を許可した責任を問われ、A級戦犯容疑者として極東軍事国際裁判に出廷すると永野は裁判中、自らにとって有利になるような弁明はせず、真珠湾作戦の責任の一切は自らにあるとして戦死した山本五十六真珠湾攻撃の責任を押しつけようとはしなかった。また、真珠湾攻撃について記者に訊ねられても「軍事的見地からみれば大成功だった」と答えるなど最後まで帝国海軍軍人として振舞った。この裁判での姿勢を見たジェームズ・リチャードソン米海軍大将は真の武人と賞し、被告席にいた永野に「あの雄大真珠湾作戦を完全な秘密裡に遂行したことに対し、同じ海軍軍人として被告永野修身提督に敬意を表する」と伝えた。また、ある米国の海軍士官が永野に質問した際、彼は「この後、日本とアメリカの友好が進展することを願っている」と述べたとされる。

 裁判途中の昭和22年1月2日に外気がまともに吹き込む独房での居留を強いられた〈吹き込む外気を防ぐための措置までも妨害された〉結果、寒さのため急性肺炎にかかり巣鴨プリズンから米国陸軍病院へ移送後同病院内で死去した。〈彼の病死が作為的な状況のもとに引き起こされたことで、彼の証言を恐れた連合国側の政治的意図によって、病死させられたとの見方も可能である。〉

 永野は公明正大な人物と知られ、親類でも特別扱いはせず、親族は一般の兵士と同様、特攻隊〈回天部隊〉などに配属された。また、海軍内でも責任感が強くケジメを大切にする人物として知られ、戦争を防止できなかった責任は自らにもあるとして敗戦の将らしく潔く裁判を受け入れた

 永野は生前の放送で「本当の勇気というものは、人に親切で温順であって、一寸見てもわからぬが、いざ自分の務めを果たすべき時には、如何なる障害をも打ち破って進むという大きな力になって顕れてくるものです」と語っている。

 

第432話 杉山参謀総長の遺書

序文・敗戦責任を痛感していた

                              堀口尚次

 

 杉山元(げん)は、大日本帝国陸軍軍人。元帥陸軍大将。陸軍士官学校卒業、陸軍大学校卒業。陸軍大臣教育総監、太平洋戦争開戦時の参謀総長陸軍大臣参謀総長教育総監陸軍三長官を全て経験し元帥にまでなったのは二人しかいない。敗戦後の9月12日に司令部にて拳銃自決。享年66。

 杉山は盧溝橋事件時の陸相、太平洋戦争開戦時の参謀総長であり、敗戦責任について痛感することが大きく、8月15日の段階で「御詫言上書」と題する遺書〈言上書〉をしたためていた。そして、この遺書は自決後の9月13日、昭和天皇の上聞に達した。全文は以下のとおりである。

 『大東亜戦争勃発以来三年八ヶ月有余、或(ある)は帷幄(いあく)〈大本営〉の幕僚長として、或は輔弼(ほひつ)〈天皇に助言する〉大臣として、皇軍の要職を辱(かたじけな)ふし、忠勇なる将兵の奮闘、熱誠なる国民の尽忠(じんちゅう)に拘(かかわ)らず、小官(しょうかん)の不敏不徳(ふちふとく)能く其の責を全うし得ず、遂に聖戦の目的を達し得ずして戦争終結の止むなきに至り、数百万の将兵を損し、巨億の国幣を費し、家を焼き、家財を失ふ、皇国開闢(かいびゃく)以来未だ嘗(かつ)て見ざる難局に擠(お)し、国体の護持亦(また)容易ならざるものありて、痛く宸襟(しんきん)〈天皇の心〉を悩まし奉り、恐惶恐懼(きょうこうきょうく)為す所を知らず。其の罪万死するも及ばず。謹(つつし)みて大罪を御詫申上ぐるの微誠(びせい)を捧ぐるとともに、御竜体の愈々(いよいよ)御康寧(ごこうねい)と皇国再興の日の速ならんことを御祈申上ぐ。』

 終戦後、9月に入ってから司令官室でピストル自決したが、この際にも彼らしいエピソードを残した。彼は終戦後もすぐに自決せず、終戦直後に療養先から自宅に戻ってきた妻に「自決すべき」と迫られたとされる。既に「御詫言上書」は終戦の日に書き上げて自決の覚悟もしていたようだが、これを妻に明かしたのは23日になってからであった。終戦処理を終えた後、9月12日朝、部下から拳銃を受け取った後自室に入った彼は、暫くして突然ドアを開き緊張してドアの外で待っていた第53軍高級参謀・田中大佐に「おい、弾が出ないよ」ととぼけて言った。田中大佐が安全装置を外してやるとそのまま部屋に再び入り、胸を4発拳銃で撃ち抜き従容と自決したという。この自決の報を自宅で聞いた夫人は「息を引き取ったのは間違いありませんか?」と確認した後、正装に着替え仏前で青酸カリを飲み、短刀で胸を突き刺し自決して夫の後を追った。


 

第431話 大本営発表

序文・政治と武力(軍事力)の分散が目的で統帥権を独立させたはずが・・・

                               堀口尚次

 

 大本営は、日清戦争から太平洋戦争までの戦時中に設置された日本軍〈陸海軍〉の最高統帥機関。その設置は統帥権の発動に基づくとされ、平時には統帥部〈陸軍参謀本部及び海軍軍令部〉や陸海軍省に分掌(ぶんしょう)される事項を一元的に処理するために設置された。

 大本営会議は天皇臨席のもと、陸海軍の統帥部長〈参謀総長軍令部総長〉、次長〈参謀次長・軍令部次長〉、それに第一部長〈作戦部長〉と作戦課長によって構成された。統帥権の独立により、内閣総理大臣外務大臣ら、政府側の文官は含まれないまた軍人ながら閣僚でもある陸軍大臣海軍大臣は、軍政との関連で列席できたが、発言権はなかった。なお、大元帥たる天皇は、臨席はしても発言しないのが慣例の御前会議とは対照的に、細かい点まで意欲的に質問することがあり、会議が形式的に流れるのを嫌った節がある。

 日中戦争時には政軍間の意思統一を目的として、大本営政府連絡会議が設置された。ただ議長たる内閣総理大臣含め、誰もイニシアティブを発揮し得ず、さらに陸海軍のセクショナリズムも作用して、戦争指導や情報共有に重大な欠陥をもたらした。

 戦果に関する広報も、陸海軍部それぞれの報道部で扱っていた。当初は航空写真を用いて詳密に説明するなど信頼度は高かった。しかし1942年中盤〈具体的にはミッドウェー海戦敗北・撤退とこれに伴うMI作戦中止〉以降の戦局悪化に伴い、戦果を過大に被害を軽微に偽装したり、撤退を「転進」、全滅を「玉砕」と言い換えるなど美化して聞こえをよくするなど、プロパガンダに走った大本営発表

 太平洋末期の敗色が濃厚になるにつれて、さも戦況が有利であるかのような虚偽の情報が大本営発表として流され続けた。このことから現在では、権力者、利権者が自己の都合の良い情報操作をして、虚報を発信することを慣用句として「大本営」「大本営発表」という表現が用いられる。

【総括】戦時中の日本は、議会制民主主義であり内閣総理大臣が民主的に選出されており独裁国家ではない。しかし統帥権独立により大本営が内閣より上の機関としてあり、国務大臣たる陸軍大臣海軍大臣も口出し出来なかった。東条英機は、内閣総理大臣でありながら、統帥権も掌握して権力を行使したのだ。 

 

第430話 高松宮宣仁親王

序文・戦争回避を進言

                               堀口尚次

 

 高松宮(たかまつのみや)宣仁(のぶひと)親王は、皇族、海軍軍人。大正天皇の第三皇子。「なるべく近くに」と長兄・昭和天皇の内意より、横須賀海軍航空隊教官に補される。太平洋戦争開戦前夕の11月20日、軍令部部員と大本営海軍参謀を務め、日本軍の実情を知り、燃料不足を理由に長兄・昭和天皇に対し開戦慎重論を言上する昭和天皇は当初宣仁親王主戦論者と見ていた為衝撃を受け、総理兼陸軍大臣・東條、軍令部総長・永野、海軍大臣・嶋田を急遽呼んで事情を聞いたという。戦後、GHQ戦史室調査員・千早が親王に当時の心境を尋ねると、戦争回避は難しいと知りながらも「真相を申し上げるのは直宮(じきみや)〈天皇と直接の血縁関係にある皇子や皇兄弟〉としての責務である。」と語っている。

 宣仁親王昭和天皇のもとに行啓(ぎょうけい)〈出向き〉し、開戦について意見を交わした。その際、統帥部の予測として「五分五分の引き分け、良くて六分四分の辛勝」と伝えた上で、敗戦を懸念する昭和天皇に対し、翌日に海軍が戦闘展開する前に戦争を抑え、開戦を中止するよう訴えた。だが昭和天皇は、政府・統帥部の意見を無視した場合、クーデターが発生してより制御困難な戦争へ突入すると考えており、宣仁親王の意見を聞き入れることはできなかった。

 側近の御用掛・細川によれば、信任する高木海軍少将や神海軍大佐などと協力して、戦争を推し進める東條の暗殺さえ一時は真剣に考えていたという。

 宣仁親王昭和19年夏ごろには、政府の方針に異を唱える言動を繰り返しており、絶対国防圏が破られた以上、大東亜共栄圏建設の理想を捨て、如何にしてより良く負けるかを模索すべきだ」「一億玉砕など事実上不可能。新聞などは玉砕精神ばかり論じていて間違っている」と主張していた。

 大戦末期にはフィリピンに向かう大西海軍中将に対して「戦争を終結させるためには皇室のことは考えないで宜しい」と伝えたという。

 昭和20年8月15日、玉音放送において兄・昭和天皇が読み上げた「終戦詔書」について、「天皇が国民にわびることばはないね」と天皇の責任〈昭和天皇の戦争責任論〉について指摘している。

【総括】一番身近で、兄〈昭和天皇〉を見てきた宜仁親王だからこその生涯であったように思う。立場は違うが、ご自分なりの道を全うされたのだ。

※左から昭和天皇三笠宮高松宮秩父宮

第429話 戦時猛獣処分

序文・戦争の悲劇はこんなところにも

                               堀口尚次

 

 戦時猛獣処分とは、戦争時において動物園の猛獣が逃亡して被害を及ぼすのを未然に防止する目的で、殺処分することを言う。歴史上では、連合国軍による本土空襲に備えて第二次世界大戦中の日本で行われた一連の事件が知られており、日本ではこの事件を指すのが慣用である。

 第二次世界大戦中の昭和18年以降に、日本各地の動物園で戦時猛獣処分が行われた。この措置は軍ではなく、都道府県や市町村などの行政機関によって命じられた。飼料不足も重なって、多数の飼育動物が戦争中に死亡した。

 日中戦争中の昭和14年頃から空襲時の猛獣脱走対策が本格的に検討されるようになった。初の全国動物園長会議では、研究課題の一つとして空襲時の猛獣脱走対策が挙げられ、檻の防護や殺処分などが検討された。これは、当時は日本領だった台湾へ中国空軍による渡洋爆撃が行われたのを踏まえての研究であった。昭和11年上野動物園クロヒョウ脱走事件以降に上野動物園で毎年行われていた猛獣捕獲訓練も、その後のものは「空襲により檻が破壊されて脱走した」との想定で実施された。東山動物園でも、防空演習の一環として殺処分の訓練が行われている。

 日米関係が悪化して太平洋戦争が迫った昭和16年には、陸軍東部軍司令部から上野動物園に対し、非常時における対策要綱を提出するように指示が出た。これに応じ、上野動物園では『動物園非常処置要綱』を作成して提出した。この要綱では、飼育動物を危険度別に4分類し、実際に空襲が始まって火災などが迫った場合には危険度の高いものから殺処分する計画になっていた。処分方法は薬殺を原則として、投薬量リストをまとめるとともに、緊急時には銃殺するものとしていた。日米開戦後の昭和17年にドーリットル空襲〈本土発空襲〉があると、空襲の脅威は、より現実的なものとして意識されはじめた。

 逃亡予防を目的とした戦時猛獣処分が実際に始まったのは、昭和18年上野動物園が皮切りである。

 何の罪もない動物を捕獲し、展示し殺傷した。これほどの人間のエゴがあろうか。舞台裏で殺処分回避に奔走した人々がいたことに、一掬の涙を禁じ得ない。