ホリショウのあれこれ文筆庫

歴史その他、気になった案件を綴ってみました。

第456話 知多半島に残るJR遺構を訪ねて

序文・名鉄と旧国鉄を乗り継いで

                               堀口尚次

 

 私が暮らす愛知県の知多半島では、二つの鉄道会社が運行している。今回は最寄りの名古屋鉄道聚楽園(しゅうらくえん)駅から知多半田駅へ行き、そこから徒歩10分でJR半田駅へ移動し、武豊(たけとよ)線に乗り終点の武豊駅を目指した。

 武豊駅を降り立つとすぐに「高橋煕(ひろし)君之像」が目に入った。これは昭和28年9月25日に襲来した台風13号の影響で、武豊駅と一つ手前の東成岩(ひがしならわ)駅の間で防波堤が決壊して高潮が発生、線路が流失した。この異変を、進行中の当駅行き上り列車に知らせるべく、武豊駅駅手の高橋煕が発煙筒を手に東成岩駅方面へ走り出した。上り列車の機関士は前方に振られる発炎筒に気付き、水際まで約400メートル程度のところで非常停止した後、東成岩駅まで後退したため、列車の乗客約30名および乗務員は難を逃れた。しかしながら高橋は武豊駅に戻ることはできず、翌日午後に遺体で発見されたが、その際にも両手で信号灯の容器をしっかり抱いた状態であった。この一件は全国に報道され、殉職した高橋の行動は「国鉄職員の鑑」として称賛された。その功を記念し将来に残すため、日本全国の国鉄職員と小中学生からの募金などにより胸像が建立されたそうだ。

 そこから徒歩20分程度で「国鉄武豊港駅転車台」に辿り着いた。この転車台は、平成11年、武豊町武豊小学校の5年生児童が「総合的な学習の時間」の授業の課題で、町の史跡を調べる歴史探訪に出かけた際に発見した遺構である。この直角2線式転車台は、全国的に残存例の少ない貴重な存在であり、鉄道技術の歴史を実証的に物語る貴重な遺産であるそうだ

 JR半田駅に戻ると、駅に隣接する「半田市鉄道資料館」や、かつて武豊線で運行していた「11265蒸気機関車」の展示を堪能した。この駅は、明治19年に開業した愛知県下では最も古い駅の一つ。駅の施設には明治時代から使用されているものが残っており、そのうち跨線橋明治43年完成。現存するJRの跨線橋では最古とされるが、駅の改築に伴い撤去工事が進行中であった。

 私はけして鉄道マニアではないが、遺構や記念碑等には興味があるので、機会を見付けては、そのような所を訪れてみたいと思う。

 

第455話 会津藩出身の陸軍大将

序文・戊辰戦争の禍根を背負って

                               堀口尚次

 

 柴五郎、万延元年 - 昭和20年は、陸軍軍人。第12師団長・東京衛戍(えいじゅ)総督・台湾軍司令官・軍事参議官を歴任し、階級は陸軍大将勲一等攻二級に至った。

 会津藩の上士〈280石〉である柴佐多蔵の五男として生まれた。会津戦争の籠城戦前に祖母・母・兄嫁・姉妹は自刃した。自刃前に親戚に預けられた五郎は親戚の山荘で隠れていたが、兄たちや父親と再会する。戦後は会津藩の武士階級は旧会津藩から移住することが決まり、藩主と同じ陸奥国斗南〈青森県むつ市〉への移住を選ぶ。

 藩校・日新館、青森県庁給仕を経て、明治6年、陸軍幼年学校に入校。明治10年陸軍士官学校に進み、明治12年、陸軍砲兵少尉に任官され、翌年に士官学校を卒業する。

 明治32年の陸軍中佐進級を経て明治33年、清国公使館附を命ぜられる。駐在武官として着任まもない時に、義和団事件が起こる。暴徒が各国の大使館を取り囲み、日本公使館書記生やドイツ公使が殺害される。柴は公使の下で居留民保護にあたり、また他国軍と協力して60日に及ぶ篭城戦を戦い、その功を称えられる。当時、北京には日本の他に11カ国が公使館を持っており、うち日本を含む8カ国が多少の護衛兵を持っていたが、柴は事前に北京城およびその周辺の地理を調べ尽くし、さらには間者を駆使した情報網を築き上げていたことから、各国篭城部隊の実質的司令官であった。事変後、柴はイギリスのビクトリア女王をはじめ各国政府から勲章を授与された。ロンドン・タオムスはその社説で「籠城中の外国人の中で、日本人ほど男らしく奮闘し、その任務を全うした国民はいない。日本兵の輝かしい武勇と戦術が、北京籠城を持ちこたえさせたのだ」と記した。

 大正元年、重砲兵第1旅団長となり、大正2年に陸軍中将に進級するが、補職は下関要塞司令官であった。数々の武勲を立てた柴が閑職にあったのは陸軍大学校を出なかったからとも、朝敵である会津藩の出だからともいう。しかしその後、師団長を務めてからは大将街道に復帰する。故郷の会津が薩摩勢に甚大な被害をもたらされ、自らの家族も犠牲にあったため、薩摩の西郷隆盛大久保利通の死を「一片の同情もわかず、両雄非業の最期を遂げたるを当然の帰結なり」として喜んだと回顧している

 

第454話 GHQが認めた米内海軍大臣

序文・日本内部からの崩壊を憂慮

                               堀口尚次

 

 米内光政(よないみつまさ)は、連合艦隊司令長官海軍大臣内閣総理大臣を歴任した。

 鈴木内閣の陸軍大臣だった阿南惟幾終戦の日当日に「米内を斬れ」と言い残して自決したが、米内本人は軍人として法廷で裁かれる道を選んだ。戦犯として拘束されることを予期し、巣鴨プリズンへ収監される場合に備えていたものの、結局米内は容疑者には指定されなかった。

 米軍側は米内の以前の言動を詳細に調査しており、GHQの某軍人が元秘書官の麻生孝雄のもとを訪ねた際、いきなり米内のことを切り出し「米内提督については生い立ちからすべて調査してある。命を張って日独伊三国同盟と対米戦争に反対した事実、終戦時の動静などすべてお見通しだ。米内提督が戦犯に指名されることは絶対にない。我々は米内提督をリスペクトしている」と断言し、麻生に米内の伝記を書くことさえ勧めている。また多くの軍人が「米内さんだけは戦犯にしてはいけない」と奔走したという話もある。戦後処理の段階に入っても米内の存在は高く評価され、東久邇宮(ひがしくにのみや)内閣・幣原(しではら)内閣でも海相に留任して帝国海軍の幕引き役を務めた。幣原内閣の組閣時には健康不安から辞意を固めていたにもかかわらずGHQの意向で留任している。

 米内は「言葉は不適当と思うが原爆やソ連の参戦は天祐(てんゆう)〈思いがけない幸運〉だった」続けて「国内情勢で戦いをやめるということを出さなくて済む。私がかねてから時局収拾を主張する理由は敵の攻撃が恐ろしいのでもないし、原子爆弾ソ連の参戦でもない。一に国内情勢の憂慮すべき事態食糧事情などによる国内秩序の崩壊から日本が内部から崩壊することが主である。軍令部あたりも国内がわかっておらなくて困るよ」と近衛文麿などに語った。

 海軍省最後の日となった11月30日に、海軍大臣として挨拶をした際にも、朝日新聞の海軍担当記者が作った原稿を読んだ後「では皆さん、さようなら」とだけ喋って終わった。幣原内閣において海軍省は廃止され第二復員省となったことから、米内が日本で最後の海軍大臣となった。

 米内の死後12年を経た昭和35年森岡八幡宮境内に背広姿の米内の銅像 が立てられ、除幕式が行われた。その直前に、巣鴨プリズンから仮釈放された81歳の畑俊六〈元陸軍大将A級戦犯〉が黙々と会場の草むしりをしていた。


 

第453話 BC級戦犯の1000名が死刑

序文・戦争犯罪とう犯罪の是非を問う

                               堀口尚次

 

 BC級戦犯は、連合国によって布告された国際軍事裁判所条例及び極東国際軍事裁判条例における戦争犯罪類型B項「通例の戦争犯罪」またはC項「人道に対する罪に該当する戦争犯罪または戦争犯罪人とされる罪状に問われた個人の総称。A項の「平和に対する罪」で訴追された者は「A級戦犯」と呼ぶ。日本のBC級戦犯は、GHQにより横浜マニラなど世界49カ所の軍事法廷で裁かれた。被告人は約5700人で約1000人が死刑判決を受けたとされる

 ダグラス・マッカーサー元帥は厚木に到着すると真っ先にエリオット・ソープ准将に東條以下の戦争犯罪人を逮捕するよう命じた。GHQは、東條英機など43名をはじめとして、その後2,636名の逮捕令状を出し、2602名の容疑者を逮捕・起訴した。

 イギリス軍を主体とする連合軍東南アジア司令部は8,900名を逮捕し、この他にソビエト連邦軍やアジア各国で逮捕されている。正確な容疑者の逮捕総数を示す資料はないが、第一復員局法務調査部では約11,000名が海外で逮捕されたと推計していることなどから、その数が1万名をはるかに超すものと考えられている。

 日本はジュネーブ条約のひとつである俘虜(ふりょ)〈捕虜〉の待遇に関する条約」を、加入はしたものの批准していなかった適用すると連合国側には約束はしていた事から、参謀本部や軍令部にも条約への意識が無く、捕虜の扱いについて指示がまちまちとなった。その結果、各部隊に捕虜の人権への理解が届かずに処刑や虐待に繋がり、必然的に訴追対象者の増加にも繋がっている

 戦後の海軍反省会では軍令部の高級参謀達が当時を振り返り、「捕虜であろうと敵は一人でも多く殺せ」という空気があり、それが軍全体に行き渡ったのだろう」と証言している。この中で元大佐は中国における海軍の民間人掃討を例に、日本兵の人権、人命軽視は日中戦争の頃より醸成されて麻痺してしまっていた事も影響したと指摘している。

 戦犯容疑者たちは、収容所で私的暴行を受けたと証言する者が多く、暴行で死亡した者がいたという証言もある。これは、日本軍が暴行を加えた現地の捕虜が看視兵を務めた例が多いからだといわれている。

 

第452話 不運の二代目・源頼家

序文・祖父の源義朝と同じ入浴中に殺害された運命

                               堀口尚次

 

 源頼家は、鎌倉時代前期の鎌倉幕府第2代将軍〈鎌倉殿〉。鎌倉幕府を開いた源頼朝の嫡男で母は北条政子〈頼朝の子としては第3子で次男、政子の子としては第2子で長男〉。父・頼朝の死により18歳で家督を相続し、鎌倉幕府の第2代鎌倉殿、更に3年半後に征夷大将軍となる。母方の北条氏を中心として十三人の合議制がしかれ、頼家の独断は抑えられたとされる。

 合議制成立の3年後に頼家は重病に陥ったとされ、頼家の後ろ盾である比企氏と、弟の実朝(さねとも)を担(かつ)北条氏との対立が起こり、北条氏一派の攻撃により比企氏は滅亡した頼家は将軍職を剥奪され、伊豆国修禅寺に幽閉された後、暗殺された。頼家追放により、北条氏が鎌倉幕府の実権を握ることになる。

 頼家の側近や政治的後見人はいずれも頼朝が選んだ人物であったが、その顔ぶれにより次の世代が比企氏中心となることが明らかであった。そのため、頼家政権における権力闘争は、頼朝が頼家のために敷いた政治路線と、その政治路線ではいずれ政権の中枢から外されることになる北条氏との対立であった。 頼家は父・頼朝のように武家の棟梁として振る舞おうとする意識を持つ武断派の将軍であり、若さゆえの未熟さや暴走は見られるものの、一方で政子が頼家の暴走に火に油を注ぐ対応をして、頼家の権威を失墜させようとしていた。つまり、頼家は実力を発揮する前に政子や北条氏に揺さぶられて殺害されたと考えられる。

 頼家は伊豆国修禅寺に護送され、翌年の元久元年7月18日、北条氏の手兵によって殺害された。享年23〈満21歳没〉。『吾妻鏡』はその死について、ただ飛脚から頼家死去の報があったことを短く記すのみである〈7月19日条〉。殺害当日の日付の『愚管抄』によると、抵抗した頼家の首に紐を巻き付け、急所を押さえて刺し殺したという。南北朝期の史書である『保暦間記』では、入浴中に殺害されたとしている 。

 幽閉された伊豆国修禅寺には政子が頼家の供養のために建てた指月殿、江戸時代に建立された頼家の供養塔などがある。また、近隣の子供達と付近の山々を遊びまわったりして子供の面倒見は良かったらしく、地元の有志によって子を思う頼家を偲んだ将軍愛童地蔵尊が建てられている。

 

第451話 橘丸事件

序文・国際法違反はお互い様

                               堀口尚次

 

 橘丸(たちばなまる)事件は、昭和20年に日本陸軍国際法に違反して病院船「橘丸」で部隊・武器を輸送した事件である。日本陸軍創設史上最も多い約1,500名の捕虜を出すこととなった。

 昭和18年12月当時、日本軍が運用し連合国側に病院船として通告済みの船舶は、日本陸軍が「橘丸」を含めて17隻、日本海軍が4隻であった。なお、日本陸軍ではこの17隻の通告済み病院船の他に、未通告のまま病院船と称する船舶を何隻か運航させていた。そのうちの1隻、「はるぴん丸」は昭和17年1月10日にアメリカ潜水艦「スティングレイ」に撃沈される。この事は1942年1月14日の大本営発表で公表され、当時の新聞は「国際條約を蹂躙」「天人倶に許すべからざる非人道的行為」と書いて、いわゆる「アメリカ軍の非人道性」を大いに批判した。しかし、「はるぴん丸」撃沈の実態は『「ハルピン」丸ハ船体黒塗ノママ赤十字標識ヲ附シアリ 敵国ニ対シ病院船トシテ通告モナシアラザリシモノニシテ国際法上ノ病院船トシテノ資格ナカリシモノナリ』と、日本海軍が記すように、登録はおろか”目立つ赤十字のマークがあったとしても病院船としての正規な塗装”を行っていなかった

 「橘丸」による兵力後退輸送任務は「光輸送乙号作戦」と命名され、命を受けた「橘丸」は海上トラック「広瀬丸」という偽名をもらい、7月27日に昭南を出港して7月31日にトアールに入港する。1,562名の将兵たちは白衣を着て患者を装い、軍服や各種武器等は赤十字社の標章を付して梱包していた。通常、荷が軽いときは砂を入れる三層構造の最下層に入れられたという。臨検された場合に備えたのか、各人の偽名と適当な内容のカルテまで準備され、そこにある名前・所属等の情報を覚えるよう指示されたという。また、連合軍に発覚、拿捕される事態になった場合には、積み込んだ火薬類で自爆することが訓示されていたという。翌8月2日、「橘丸」はトアールを出港するが、この時すでにアメリカ軍の飛行艇が上空で張り付いていた。アメリカ軍は通信傍受により、「橘丸」が兵士を輸送していることを把握していたのである。乗り込んだ兵士らの中には、大砲を含む武器や弾薬をあまりに積み込んだために、船の喫水線(きっすいせん)が下がり、それで怪しまれたと考える者もいる。結果「橘丸」は国際法違反により拿捕(だほ)された。自爆は実行されなかった。

 

第450話 玉音放送・現代語訳

序文・けふ正午に重大放送

                               堀口尚次

 

 「堪え難きを堪え 忍び難きを忍び もって万世の為に太平を開かんと欲す」で有名な玉音放送は、『大東亜戦争終結詔書』であり「終戦詔書」とも呼ばれ、天皇大権に基づいてポツダム宣言を受諾する勅旨を国民に宣布するために8月14日付で詔として発布され、同日の官報号外にて告示された。大まかな内容は内閣書記官長・迫水久常が作成し、8月9日以降に漢学者・川田瑞穂〈内閣嘱託〉が起草、さらに14日に安岡正篤〈大東亜省顧問〉が刪修(さんしゅう)〈不要な字句または文章をけずって改める〉して完成し、同日の内に天皇の裁可があった。大臣副署は当時の内閣総理大臣鈴木貫太郎以下16名。第7案まで議論された。以下の全文の現代語訳を記す。

 

 私は、深く世界の情勢と日本の現状について考え、非常の措置によって今の局面を収拾しようと思い、ここに忠義で善良なあなた方国民に伝える。私は、帝国政府に、アメリカ・イギリス・中国・ソ連の4国に対して、それらの共同宣言〈ポツダム宣言〉を受諾することを通告させた。

 そもそも、日本国民の平穏無事を確保し、全ての国々の繁栄の喜びを分かち合うことは、歴代天皇が大切にしてきた教えであり、私が常々心中強く抱き続けているものである。先にアメリカ・イギリスの2国に宣戦したのも、正に日本の自立と東アジア諸国の安定とを心から願ってのことであり、他国の主権を排除して領土を侵すような事は、元より私の本意ではない。
 しかしながら、交戦状態も既に4年を経過し、我が陸海将兵の勇敢な戦い、我が全官僚たちの懸命な働き、我が1億国民の身を捧げての尽力も、それぞれ最善を尽くしてくれたにも関わらず、戦局は必ずしも好転せず、世界の情勢もまた我が国に有利とは言えない。それ所か、敵国は新たに残虐な爆弾〈原子爆弾〉を使い、むやみに罪のない人々を殺傷し、その悲惨な被害が及ぶ範囲はまったく計り知れないまでに至っている。
 それなのになお戦争を継続すれば、ついには我が民族の滅亡を招くだけでなく、更には人類の文明をも破滅させるに違いない。そのようなことになれば、私はいかなる手段で我が子とも言える国民を守り、歴代天皇の御(み)霊(たま)に詫びることができようか。これこそが私が日本政府に共同宣言を受諾させるに至った理由である。

 私は日本と共に終始東アジア諸国の解放に協力してくれた同盟諸国に対して、遺憾の意を表さざるを得ない。日本国民であって戦場で没し、職責の為に亡くなり、戦災で命を失った人々とその遺族に思いをはせれば、我が身が引き裂かれる思いである。更に、戦傷を負い、戦禍をこうむり、職業や財産を失った人々の生活の再建については、私は深く心を痛めている。考えて見れば、今後日本の受けるであろう苦難は、言うまでもなく並大抵のものではない。あなた方国民の本当の気持ちも私はよく分かっている。然し、私は時の巡り合わせに従い、堪え難くまた忍び難い思いを堪え、永遠に続く未来の為に平和な世を切り開こうと思う

 私は、ここにこうして、この国の形を維持することができ、忠義で善良なあなた方国民の真心を信頼し、常にあなた方国民と共に過ごす事ができる。感情の高ぶりから節度なく争い事を繰り返したり、或は仲間を陥れたりして互いに世情を混乱させ、その為に人としての道を踏み誤り、世界中から信用を失ったりするような事態は、私が最も強く戒める所である。 
 正に国を挙げて一家として団結し、子孫に受け継ぎ、神国日本の不滅を固く信じ、任務は重く道のりは遠いと自覚し、総力を将来の建設のために傾け、踏むべき人の道を外れず、揺るぎない志をしっかりと持って、必ず国のあるべき姿の真価を広く示し、進展する世界の動静には遅れまいとする覚悟を決めなければならない。
 あなた方国民は、これら私の意をよく理解して行動して欲しい。

 

 この放送は、第二次世界大戦における枢軸国側の日本のポツダム宣言受諾による終戦〈日本の降伏〉を日本国民に伝える目的で、日本ではこの玉音放送の行われた8月15日を「終戦の日」あるいは終戦記念日と呼び、以後毎年のように、日本政府主催で全国戦没者追悼式を日本武道館で行い、正午に黙祷を行うのが通例となっている。なお、正式に日本が降伏したのは、それから半月後の対連合国への降伏文書が調印された同年9月2日のことであり、それまでは国際法上交戦状態だった。