ホリショウのあれこれ文筆庫

歴史その他、気になった案件を綴ってみました。

第1022話 廷臣八十八卿列参事件

序文・公家vs幕府

                               堀口尚次

 

 廷臣八十八卿(きょう)列参事件は、安政5年に日米修好通商条約締結の勅許打診を巡って発生した、公家による抗議行動事件である。

 日米修好通商条約締結にあたり、幕府は水戸藩を中心とした攘夷論を抑えるために孝明天皇の勅許を得ることにし、老中・堀田正睦(まさよし)が参内することとなった。しかし安政5年3月12日に関白・九条尚忠が朝廷に条約の議案を提出したところ、堂上(どうじょう)公家〈上級公家〉137家のうち、岩倉具視中山忠能(ただやす)ら合計88名が条約案の撤回を求めて抗議の座り込みを行った。これに続いて、官務・壬生輔世と出納・平田職修より地下官人〈下級公家〉97名による条約案撤回を求める意見書が提出された。

 その結果孝明天皇は条約締結反対の立場を明確にし、20日には参内した堀田に対して勅許の不可を下し、以後条約の勅許を頑強に拒否することとなった。

勅許を得られなかった責任を取る形で堀田正睦は老中辞職に追い込まれた他、九条尚忠も内覧職権を一時停止された。幕府は井伊直弼主導のもとに88人の当事者の処罰に動き、公家側から多くの処罰者が出ることとなる

 江戸時代、公家社会は以後の禁中並公家諸法度諸法令によって、江戸幕府が派遣する京都所司代による強圧的な統制下に置かれていた。更に、五摂家武家伝奏となったごく一握りの者以外、公家の大多数は経済面においても内職をして収入を得なければならないほど苦しい状況に置かれていた。

 条約の勅許を打診されたことを契機に、中・下級の公家たちの江戸幕府に対する政治的・経済的な鬱屈が、抗議活動の形で爆発することとなった。彼等の動きによって勅許阻止が実現したことは江戸幕府の権威失墜を招く結果となり、これ以降、朝廷が幕末において重要な役割を果たす契機になったといえる。

 なお、名称こそ「八十八卿」とあるが、公卿の最低条件である従三位または参議ではない公家も含まれる。

 同じような公家らが引き起こした事件として、廷臣二十二卿列参事件がある。慶應2年8月30日に発生した公家による騒擾(そうじょう)〈暴動〉事件である。なお、この事件の背後には岩倉村に蟄居中の岩倉具視の策謀が有ったとされ、これは後に岩倉による天皇暗殺疑惑へと繋がる伏線をなしている。

 

第1021話 昭和の天一坊・堀川辰吉郎

序文・明治天皇の御落胤

                               堀口尚次

 

 堀川辰吉郎明治24年 - 昭和41年は、日本の実業家、大アジア主義者、世界連邦主義者。俗に出口王仁三郎新宗教「大本」の二大教祖の一人〉の黒幕、大アジア主義者と称する怪シナ浪人などと呼ばれ、西園寺公望明治天皇の御落胤と称して「昭和の天一」とも呼ばれた人物。

 明治45年/大正元年当時、活動写真〈無声映画〉の九州全域への配給会社を経営していた。昭和9年には映画貸附販売業を営んでいた。出自や育ち、その他経歴については釈然としないが、「明治天皇の落とし子」、「井上馨の手で、臣籍降下され、頭山満玄洋社に入れられる」と伝える資料もある。

 一方、「福岡の鉱山王・井上重蒼の妾腹の子として生まれ学習院に入学したが17歳の時同級生を殴打して退学され郷里で妻をめとったが落ちつかず」、「25歳の時満洲に渡り上海、支那を数年来放浪して内地へ戻り活動の弁士等をやつてゐる内に写真の撮影を覚え」、やがて写真撮影の仕事を通じて児玉秀雄などの名士たちに取り入って20万~30万円の資産を蓄え、これを資金として詐欺を繰り返し、西園寺公望落胤と称して帝国ホテルに泊まりこみ豪遊しているところを警視庁に連行された、とする新聞報道もある。

 この報道によると、堀川齋藤実首相や小山松吉法相など名士の名を利用して内地や朝鮮半島満州で詐欺を働いていた「昭和の天一」であるという。天一坊事件は、明治時代中期、山伏の天一坊改行江戸幕府8代将軍徳川吉宗落胤を称して浪人を集め、捕らえられ獄門になった事件

 明治天皇落胤とも噂されたが、堀川自身は公の場でそのように名乗ったことはないとされている。後に堀川の娘と名乗る中丸薫によって、堀川明治天皇と女官の「千草任子」の間に出来た隠し子という記事が雑誌に掲載された。

 頭山満を頼って日本に亡命していた孫文が帰国の途につこうとしていた際、堀川は日本の学校にいられなくなったため、13歳のある日、頭山の依頼で孫文に托され、戴(たい)天(てん)仇(きゅう)に連れられて中国に渡ることとなった。このとき孫文が周囲に対して堀川を「日本の若宮」と紹介し、「日本が我らに若宮を托したことは、わが革命軍に対する日本の賛意の証」と主張して政治宣伝に利用したことが、堀川をして明治天皇落胤とする風説の根拠の一つとなっている。

 

第1020話 「マンネンさ」こと森田萬右衛門

序文・風紀改善

                               堀口尚次

 

 森田萬右衛門(まんえもん)嘉永5年 - 昭和9年〉は、尾張国知多郡富貴村〈現・愛知県武豊町〉出身の篤農家。地元では親しみを込めて「マンネンさ」と呼ばれる。

 嘉永5年、百姓である森田浦蔵の長男として生まれた。幼名は亀太郎。富貴村の円観寺にある寺子屋である弘文学校で学び、二宮尊徳報恩思想に感銘を受けた。若い頃は若連中の代表として村人を先導した。

 明治11年に富貴村・東大高村・市原村の3村が合併して三芳村となると、明治12年には26歳にして三芳村の戸長〈現在でいう村長〉に任命された。戸長時代には教育の普及と農業の発展に貢献した。優秀な若者を選抜して村費で師範学校に通わせ、卒業後には三芳村の小学校に雇用するという画期的な制度を導入。また、ため池の造成、山野の開墾、他村に先駆けた桑園の開発〈養蚕(ようさん)〉など、農業生産の向上に尽力した。明治15年には学務員となり。富貴村立小学校の校舎の改築に尽力した。

 明治21年には富貴村東部の知多湾岸の干拓事業を完成させており、この土地は森田を称えてモリマン新田森万新田と名付けられた明治26年には賭博禁止令を制定、その他には飲酒や夜這いも禁止して富貴村の風紀を改善している。

 森田は富貴村のみならず、知多郡の他地域でも農業の改良に尽力した。害虫の駆除、共同苗代の実行、養蚕組合の設立、蚕種の製造、産米の改良などである。大正10年には愛知県の内外からの賛同を得て、富貴村の中心部に森田翁頌徳記念図書館が設立された。森田の古希〈70歳〉を記念したこの事業には当時としては巨額の17000円が投じられている。昭和7年新宿御苑で開かれた観菊会では昭和天皇に拝謁した。森田昭和9年に不帰の人となり、富貴小学校で村葬が行われた。森田家の菩提寺は教福寺であり、教福寺には森田の書による額が飾られている。

 生前に森田が説いていた木曽川から知多半島への用水の必要性は、知多市の久野庄太郎らに引き継がれ、昭和36年には愛知用水として結実した。武豊町役場富貴支所前には森田萬右衛門銅像が勃(た)っている。武豊町歴史民俗資料館には森田の業績をまとめたモリマンコーナーが設置されている。

※筆者撮影

第1019話 板垣退助の窮地を救った内藤魯一

序文・板垣退助の秘書

                               堀口尚次

 

 内藤魯一(ろいち)〈弘化3年 - 明治44〉は、幕末から明治にかけて活躍した自由民権運動家。衆議院議員立憲政友会〉。

 弘化3年、陸奥国福島〈現在の福島県福島市〉に生まれた。内藤家福島藩士の家であり、代々普代大名・板倉氏の家老職を務めた家柄だった。

 慶応4年 の戊辰戦争の際、福島藩奥羽越列藩同盟に参加したが、内藤はこれに反対して孤立したが、福島藩が敗北すると事態の収拾に尽くした。その後、三河国重原藩〈現在の愛知県刈谷市に転封されたものの、執政大参事として藩政の立て直しに参画し、廃藩置県後も藩士の授産活動に尽くした。

 明治維新後の明治12年、愛知県三河地方に旧重原藩士と周辺の豪農を中心とした三河交親社を設立、翌年には組織を拡大改組して愛知県交親社を設立した。同年3月に大阪で開催された愛国社第4回大会には、愛知県交親社の代表として参加している。県下の自由民権運動の指導者として活躍し、板垣退助に倣(なら)って「三河板垣」の名前で呼ばれた。後に自由党の設立に関わって幹事に選出され、「大日本国憲草案」〈私擬憲法〉を起草した。

 内藤板垣退助の秘書でもあった。明治15年4月6日、板垣が岐阜の神道中教院で暴漢に襲われた岐阜遭難事件の際、刺客の相原を投げ飛ばして取り押さえ、板垣の窮地を救った

 明治17年には自由民権運動の激化事件として知られる加波山事件に連座したことで2年の獄中生活を送った。

 明治23年には第1回衆議院議員総選挙に出馬するも、干渉と他県生まれというハンディによって落選した。愛知県会議員を10年以上に渡って務め、明治用水の整備や名古屋港の築港に力を注いだ

 明治35年教科書疑獄事件収賄罪に問われ、懲役1年の刑を受けた。これにより県会議長の座を失ったものの、受け取った金の全額を経営危機にあった東海新聞社の救済資金に充てたため、かえって声望が高まり、明治38年衆議院議員補欠選挙に立候補し当選した。第9回衆議院議員総選挙でも再選され、明治44年、代議士現職のままで死去した。

 墓所は愛知県刈谷市小垣江町の龍江寺。愛知県知立市知立市猿渡公民館には「内藤の銅像」があり、豊田市駒新町には「内藤魯一終焉の地」の碑がある。

※筆者撮影

第1018話 松前藩家老で画家「蠣崎波響」

序文・天皇も見た絵

                               堀口尚次

 

 蠣崎波響(かきざきはきょう)/蠣崎広年は、江戸時代後期の画家、松前藩家老。松前藩12代藩主・松前資広(すけひろ)の五男に生まれる。

 波響が生まれた翌年に父が亡くなり、兄の道広が藩主を継いだ。翌年に波響は、家禄五百石で藩主一門寄合の蠣崎家の蠣崎広武の養子となった。幼い頃から画を好み、8歳の頃馬場で馬術の練習を見て、馬の駆ける様を描いて人々を驚かせたと伝わる。叔父で松前藩家老の広長は波響の才能を惜しんで、安永2年に江戸に上がらせ、南(なん)蘋(びん)派の画家の建部綾足(たけべあやたり)に学ばせた。江戸は田沼意次の治世下で割と開放的であり、波響もまた江戸の気風によく泳いだとされる。天明20年20歳の時松前に戻った。この年の冬から大原左金吾〈儒学者〉が約一年ほど松前に滞在しており、以後親交を結んだ。

 寛政元年のクナシリ・メシナの戦いで松前藩に協力したアイヌの酋長を描いた『夷酋列像』を翌年冬に完成させ、これらが後に代表作とされる。寛政3年に同図を携え上洛した。『夷酋列像』は京都で話題となり、高山彦九郎〈勤皇思想家〉や大原左金吾の斡旋により、同図は光格天皇の天覧に供され、絵師波響の名は洛中で知られるようになった。京では松前藩の外交を担いつつ、円山応挙に師事しその画風を学び、以後画風が一変する。また漢詩の同好の士らとも交流し、高山彦九郎とはオランダ語の本を借り受けたり、蝦夷から持ち込んだオットセイの肉を振る舞ったことが記録されている。

 寛政7年、甥で藩主松前章広の文武の師として大原左金吾を招聘した。翌寛政8年にイギリス船・プロビデンス号がアプタ沖に出没し上陸した。この際の藩の対応に不満を持った大原は藩を離れ、幕府に対し松前藩が外夷と内通しようとしていると讒言したため、以下の転封に繋がったとされる。

 文化4年、幕府が北海道を直轄地にしたため、松前家は陸奥国伊達郡梁川藩に転封され、波響も梁川に移った。松前氏はこの後、旧領復帰の運動を繰り広げるが、この工作の資金稼ぎと直接の贈答用に、波響の描いた絵が大いに利用された。また工作のルートとして、波響の名声や、波響の絵画や漢詩などの同趣味の人脈が大いに役に立ったと伝わる。文政4年、松前家が松前に復帰すると波響も翌年松前に戻ったが、江戸に出て諸方に復領の挨拶回りを行った。江戸にて病を得て、文政9年に松前にて63歳で没した。

 

第1017話 「暁に祈る」事件

序文・シベリア抑留リンチ事件

                               堀口尚次

 

 「暁に祈る事件は、第二次世界大戦終結後の1940年代後半、ソ連軍によるシベリア抑留の収容所において、日本人捕虜の間で起きたとされるリンチ事件。リンチの指示を行ったとされる人物が、日本への帰国後に逮捕・起訴されて有罪判決を受けたが、本人は冤罪であると主張していた。

 モンゴル人民共和国ウランバートル収容所において、元日本軍憲兵曹長であった池田重善〈収容所内では「吉村久佳」の変名を名乗っていた〉が日本人捕虜内のゴロツキらを懐柔して自身の取り巻きとし、自分であればノルマの2割増しの成果を挙げることが出来ると、ソ連収容所側に自身を売り込み、日本人捕虜の隊長に任じられ、十分な作業成果を果たせなかった隊員にはリンチを加え、その結果として多数の隊員を死亡させていたといわれた。この「暁に祈る」とは、そこで加えられた、木に一晩中縛り付けられるリンチに対して隊員らによって付けられた名で、縛り付けられて凍死ないし瀕死となった隊員が明け方になるころ首がうなだれ、「暁に祈る」ように見えたことによるものとされる〈収容所で行われた演芸会で、ある者がこれを風刺する劇を行ったことから広まったという。〉

 GHQ占領下で日本の主権・外交権回復前のことであり、既に冷戦下の東西対立も激化しており、共産圏のモンゴル人民共和国でおこったことであり、現地調査や物的証拠の収集は事実上不可能であろうとの見方が支配的であった。1949年4月からは新刑事訴訟法が施行されることが決まっていて、従来の予審で事実関係を詰めるやり方が出来なくなっており、一方で、旧刑事訴訟法の時代も証拠の自由心証主義を定めてはいたものの、「自白は証拠の王」とする従来の感覚は実際には根強く残っていた。当時の新聞を見ても、本人が収容所の命令として、自身の勝手な処分であることを否定する以上は立件は困難ではないかという見方も強かった。また、国外での事件であるため、裁判管轄権の問題や、収容所の命令であれば本人の責任を問えるのかといった法律問題も指摘されていた。結局、証言者らは、殺人罪ではなく致死罪で告発したが、これは新法で起訴を検察官の裁量に委ねる起訴便宜主義に変わっていたため、証拠収集や自白を得ることが困難である以上、確実に検察官に受理してもらうことを優先せざるを得なかったとみられる。

 

第1016話 列車から転落した宮城道雄

序文・謎の転落死

                               堀口尚次

 

 宮城道雄明治27年 - 昭和31年〉は、日本の作曲家・筝曲家である。兵庫県神戸市生まれ。旧姓は菅(すが)。十七絃の開発者としても知られる。大検校(けんぎょう)〈盲人の最高位〉であったため、広く『宮城検校』と呼ばれた。

 明治27年に菅国治郎とアサの長男として兵庫県神戸市三宮の居留地内で生まれる。生後200日頃から眼病を患い、また4歳の頃に母と離別して祖母ミネのもとで育てられた。7歳の頃に失明。以降、生涯において咽頭炎など発病の際に折に触れて眼痛を訴えることがあったが、この失明が転機となり音楽の道を志す

 昭和31年6月25日未明、大阪での公演へ向かうため、下りの夜行寝台急行列車「銀河」に付き添いの内弟子牧瀬喜代子とともに乗車中、午前3時頃、愛知県刈谷市刈谷駅手前で客車ドアから車外に転落した。午前3時半頃現場を通りかかった貨物列車の乗務員から〝三河線ガードのあたりで線路際に人のようなものを見た〟という通報を受け現場に向かった刈谷駅の職員に救助され豊田病院へと搬送されたが、午前7時15分に病院で死亡が確認された。救助時点ではまだ意識があり、自らの名前を漢字の説明まで入れて辛うじて名乗ったと伝えられる。

 道雄の死については、寝ぼけてトイレのドアと乗降口を間違えたなどの推測や、一方では自殺も噂されたが、どれも推測や憶測にとどまり事故の真相は不明である。周囲の人物評では、内田百閒(ひゃっけん)〈小説家〉が道雄の行動を常々観察して「カンの悪い盲人」と評しており、高峰秀子もまたこの訃報を新聞で知ったときに、ただちに「宮城先生は誤ってデッキから落ちられたのだ」と思ったという。実際に道雄は晩年自宅内で転倒して片方の眼球を痛め、眼球摘出手術を受けるという事故を経験しており〈その後は義眼を入れていた〉、視覚障害者としては歩行感覚が鋭敏でなかったことをうかがわせる。

 「春の海は、日本の筝曲家であり作曲家の宮城道雄が作曲した筝曲。箏と尺八の二重奏である。新日本音楽を代表する楽曲である。日本では、小学校における音楽の観賞用教材として指定されているほか、特に正月には、テレビ・ラジオ番組や商業施設等でBGMとして使用されているため、今日では正月をイメージする代表的な曲の一つとして知られている。

                  ※筆者撮影