ホリショウのあれこれ文筆庫

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第1018話 松前藩家老で画家「蠣崎波響」

序文・天皇も見た絵

                               堀口尚次

 

 蠣崎波響(かきざきはきょう)/蠣崎広年は、江戸時代後期の画家、松前藩家老。松前藩12代藩主・松前資広(すけひろ)の五男に生まれる。

 波響が生まれた翌年に父が亡くなり、兄の道広が藩主を継いだ。翌年に波響は、家禄五百石で藩主一門寄合の蠣崎家の蠣崎広武の養子となった。幼い頃から画を好み、8歳の頃馬場で馬術の練習を見て、馬の駆ける様を描いて人々を驚かせたと伝わる。叔父で松前藩家老の広長は波響の才能を惜しんで、安永2年に江戸に上がらせ、南(なん)蘋(びん)派の画家の建部綾足(たけべあやたり)に学ばせた。江戸は田沼意次の治世下で割と開放的であり、波響もまた江戸の気風によく泳いだとされる。天明20年20歳の時松前に戻った。この年の冬から大原左金吾〈儒学者〉が約一年ほど松前に滞在しており、以後親交を結んだ。

 寛政元年のクナシリ・メシナの戦いで松前藩に協力したアイヌの酋長を描いた『夷酋列像』を翌年冬に完成させ、これらが後に代表作とされる。寛政3年に同図を携え上洛した。『夷酋列像』は京都で話題となり、高山彦九郎〈勤皇思想家〉や大原左金吾の斡旋により、同図は光格天皇の天覧に供され、絵師波響の名は洛中で知られるようになった。京では松前藩の外交を担いつつ、円山応挙に師事しその画風を学び、以後画風が一変する。また漢詩の同好の士らとも交流し、高山彦九郎とはオランダ語の本を借り受けたり、蝦夷から持ち込んだオットセイの肉を振る舞ったことが記録されている。

 寛政7年、甥で藩主松前章広の文武の師として大原左金吾を招聘した。翌寛政8年にイギリス船・プロビデンス号がアプタ沖に出没し上陸した。この際の藩の対応に不満を持った大原は藩を離れ、幕府に対し松前藩が外夷と内通しようとしていると讒言したため、以下の転封に繋がったとされる。

 文化4年、幕府が北海道を直轄地にしたため、松前家は陸奥国伊達郡梁川藩に転封され、波響も梁川に移った。松前氏はこの後、旧領復帰の運動を繰り広げるが、この工作の資金稼ぎと直接の贈答用に、波響の描いた絵が大いに利用された。また工作のルートとして、波響の名声や、波響の絵画や漢詩などの同趣味の人脈が大いに役に立ったと伝わる。文政4年、松前家が松前に復帰すると波響も翌年松前に戻ったが、江戸に出て諸方に復領の挨拶回りを行った。江戸にて病を得て、文政9年に松前にて63歳で没した。