ホリショウのあれこれ文筆庫

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第119話 二宮金次郎のイメージと実像

序文・あの像は戦後消えたのか?GHQが修身教育を排除したからか?!

                               堀口尚次

 

 小学校の校庭に建つ、薪を背負いながら本を読む金次郎の像は有名だ。戦前の修身の教科書では、『刻苦勉励(こっくべんれい)〈心身を苦しめてつとめはげむこと苦労を重ねて一心に努力すること〉』とされ、元総理大臣の中曽根康弘も絶賛している。

 幕末の農家の出であるが、晩年には小田原藩や幕府にも仕え、幕臣として活躍し、死後には従四位(じゅしい)〈位階=朝廷から授かる位(くらい)〉を贈られている。

 金次郎は、貧困や家庭(家族・親族)の都合で、自分が人一倍働かなければ、家が立ち行かないということを、早くに理解し行動した。人一倍働き、寝る間も惜しんで勉学(本を読み、字を習い、算術の稽古をした)に勤(いそ)しんだのだ。

 小学校の像の印象が強いので、小男のイメージだが、身長が6尺(約180センチ強)を超えていたという伝承もある。また体重は94kgあったと言われている。家風に合わぬという口実で、妻が離別を申し出たので離縁し、翌年には34歳の金治郎は16歳の女と再婚しているが、これもイメージと合わない。

 逸話としては、村人たちの開墾作業を見回っていた時、一人の男が他の村人の何倍も激しい勢いで仕事をしている様子を見て、「そのような勢いで一日中働き続けられるはずがない。お前は他人が見ている時だけ一生懸命に働く振りをして、陰では怠けているに違いない」と怒鳴り、村人たちの前で男の不正を厳しく叱ったというものがある。

 その一方で、年老いて無力ながらも陰日向なく真面目に働き、他の村人たちがやろうとしない木の切り株を掘り起こす面倒な作業を毎日地道に続けてきた出稼ぎの老人に対しては、開墾に邪魔な木の切り株を彼が全部取り除いてくれたおかげで他の村人たちの作業が容易になり開墾がはかどったという理由から、通常の賃金のほかに慰労金としての大金を与えたという。

 薪を背負いながら本を読んで歩く姿で、実際に歩いていたという事実があったかは疑問が残るようだ。学校教育や、地方自治における国家の指導に「金治郎」が利用された経緯には、金次郎の実践した自助的な農政をモデルとして、自主的に国家に献身・奉公する国民の育成を目的とした統合政策の展開があった。この「金治郎」の政治利用は、山縣有朋を中心とする人脈によって行われていたという。

 「尊徳」は諱(いみな)であり、「たかのり」が正しいが「そんとく」で定着した。

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