ホリショウのあれこれ文筆庫

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第143話 石橋湛山の心臓

序文・短命だったが異色の総理大臣がいた

                               堀口尚次

 

 石橋湛山(たんざん)は、第55代内閣総理大臣であるが、在職65日という経歴を持つ。

早稲田大学卒業後、新聞社に入社、その後軍隊を経て、東洋経済新報社に入社。

その後町議会議員を経て衆議院議員となり、第一次吉田内閣で大蔵大臣となる。

 そして戦時保証債務打ち切り問題、石炭増産問題、進駐軍経費問題等でGHQと対立する。進駐軍経費は賠償費として日本が負担しており、ゴルフ場や邸宅建設、贅沢品等の経費も含んでいて、日本の国家予算の3分の1を占めている。このあまりの巨額の負担を下げるように、石橋は要求した。アメリカは、諸外国の評判を気にしたことと、以後の統治をスムーズに進行させることを考慮して、日本の負担額を2割削減することとなった。

 戦勝国アメリカに勇気ある要求をした石橋は、国民から“心臓大臣”と呼ばれるもアメリカに嫌われ、昭和22年に衆議院議員総選挙で当選したが、公職追放令をもってGHQにより公職追放された。この公職追放吉田茂が関わっていると云われた。昭和26年の追放解除後は、吉田の政敵であった自由党・鳩山派の幹部として打倒吉田に動いた。この時期に立正大学から懇請されて、学長に就任している。

 昭和31年自由民主党総裁選挙の結果、当選した石橋が首班指名を受け組閣した。昭和天皇から首相の任命と閣僚の認証を受け、石橋内閣が発足。

 ところが内閣発足から1ヶ月後に石橋が脳梗塞で倒れ職務不能となったため、結局石橋は続投を断念し、2月に総辞職した。在任65日は憲政史上4番目の短さである。内閣総理大臣がが国会で一度も演説や答弁をしなかった内閣は、日本国憲法下では石橋内閣が唯一である。閣僚の人選が遅れたため、任命まで一時的に石橋が臨時代理の形で全ての閣僚を兼任したもの異例であった。

 湛山は戦前、軍国主義専制主義・国家主義からなる「大日本主義」に対し産業主義・自由主義個人主義を3つの柱とする小日本主義を提唱した。

 小日本主義とは、植民地が経営上「赤字」に転落していたといわれ、それと同様でしかもさらに国力が微弱な日本は朝鮮、台湾などの植民地経営を行っても行政コストなどの面でやはり「出超」となり無駄が多く、それらの領有を放棄し独立させ、「主権線」としては内地すなわち日本本土のみの軍事負担も小さい「通商国家」として繁栄を謳歌しよう、という思想だった。

 戦前の植民地政策を批判したり、戦後はGHQに「NO!」は突き付けるなど病気で政権が短命に終わらなかったらどんな世の中になっていただろう。因みに、湛山は日蓮宗のお寺の生れで、本人も権大僧正という位を持っている。

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