序文・何かの御導きか・・・
堀口尚次
愛知県知多半島の先端、南知多町の山海地区にある大慈山中之院に、無数の軍人像があります。私は過日ここを訪れ鎮魂の参拝をしました。立て札に書かれていた文を以下に記します。
『中之院 軍人像について
ここの軍人像のほとんどは、昭和12年上海上陸作戦における呉淞(ごしょく)の敵前上陸で戦死された、名古屋第3師団歩兵第6連隊の兵士達です。
緊急の出動で、名古屋城内の兵営より名古屋港まで夜間13キロの歩行行軍の後、艀(はしけ)で野間沖に待機していた巡洋艦、駆逐艦に乗り込み、わずか廿(にじゅう)六(ろく)時間で揚子江河口付近に到着後の昭和12年8月23日の敵前上陸でしたが、上陸後半月足らずでほとんど全滅してしまいました。
軍人像そのものは、めいめいの御遺族が戦没者の一時金でもって写真を基に造らせ建立したものです。昭和12年から18年のことと言います。
また戦後、進駐軍が取り壊しを命したさい、僧侶が「国のために死ぬということはアメリカも日本も変わりはない。あれを日本人の手で壊すことはできない。どうしても壊すというなら、我々をこの場で銃殺した上で、あなた方が行って壊せばいいだろう」と頑張った。
おかげで像は壊されずに済んだということです。
建立当時より名古屋市千種区月が丘にあったもので、当山には御縁により平成7年11月にお移しし、この地で安住いただいております。
現在もよくご遺族ご縁者の方々がお参りにいらっしゃっています。
私は、20歳代に名古屋市千種区に勤務している頃に、このような軍人像を、この目で見たことがありました。今回、この軍人像を目の当たりにした時に、その時の記憶が鮮明に蘇(よみがえ)ってきました。そして、この立て札を読んで、その謎が解けました。
私は、約35年前に移転される前のこの軍人像を見ているのでした。今回私は、隣接する真言宗の岩屋寺を訪れており、その帰りがけに偶然にもこの軍人像と出くわしたのでした。これも何かの御導きでしょうか。私は畏(かしこ)み、鎮魂の祈りを捧げました。そして、進駐軍に抵抗した僧侶の姿勢に、敬服しました。合掌