ホリショウのあれこれ文筆庫

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第220話 五・一五事件の「話せばわかる」

序文・二二六事件の布石

                               堀口尚次

 

 五・一五事件は、昭和7年に日本で起きた反乱事件。武装した海軍の青年将校たちが内閣総理大臣官邸に乱入し、犬養毅首相を殺害した。

 大正時代、衆議院の第一党の党首が内閣総理大臣になるという「憲政の常道」が確立したことで議会制民主主義が根付き始めた。しかし、昭和4年世界恐慌に端を発した大不況により企業倒産が相次ぎ、失業者は増加、農村は貧困に喘ぎ疲弊する一方で、大財閥などの富裕層は富を蓄積して格差が広がり社会不安が増大するが、それらの問題に対処できず富裕層を守るばかりと見られた政党政治が敵視されるようになり、政治の革新が強く求められるようになっていた。国家革新求める者の中には過激化し、時の首相を暗殺しようとする動き〈濱口首相遭難事件〉が起こったり、昭和維新を標榜し、政党と財閥を倒し軍事政権の樹立を目指す陸軍将校らによるクーデター未遂事件〈三月事件、十月事件〉も相次ぐなど世情は緊迫していった。

 海軍でも、ロンドン海軍軍縮条約を締結した内閣に不満を抱いた一部の海軍将校は、クーデターによる国家改造の計画を抱き始める。当初の計画の中心人物達は、陸海軍共同での決起を目指して陸軍将校や民間の思想家らと連携し計画を練っていた。しかし時期尚早であるとする陸軍将校〈後に二・二六事件を起こすメンバーら〉とは決裂、また軍務による制約があり憲兵の監視も受けるなど十分な活動ができない海軍将校らに見切りをつけた者は民間人だけでの決起を目指す〈血盟団事件〉など運動は分裂するが、クーデターの計画は進んでいた。

 こうして海軍の青年将校らは靖国神社に集合し、首相官邸内大臣邸・立憲政友会本部・三菱銀行本店・警視庁などを襲撃した。犬養首相が殺害される際に、犬養と元海軍中尉との間で交わされた「話せばわかる」「問答無用、撃て!というやり取りはよく知られている。

 事件に関与した海軍軍人は反乱罪の容疑で、陸軍士官学校本科生も反乱罪の容疑で、民間人は爆発物取締罰則違反・殺人罪・殺人未遂罪の容疑でそれぞれ裁かれた。時の首相を殺害したにも関わらず、誰一人処刑されていない。

 当時の政党政治の腐敗に対する反感から犯人の将校たちに対する助命嘆願運動が巻き起こり、将校たちへの判決は軽いものとなった。このことが二・二六事件の陸軍将校の反乱を後押ししたと言われ、二・二六事件の反乱将校たちは投降後も量刑について非常に楽観視していたことされる。軍人は三権分立の司法の外にあり、軍法会議で処されるところに問題があったと思わざるを得ない。

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