ホリショウのあれこれ文筆庫

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第310話 昭和東南海地震

序文・軍需工場転用と隠匿

                               堀口尚次

 

 昭和東南海地震は、昭和19年12月7日午後1時36分から、紀伊半島東部の熊野灘三重県尾鷲市沖約20キロメートルから浜名湖沖まで破壊が進行した、マグニチュード7.9のプレート境界型巨大地震。単に「東南海地震」または「1944年東南海地震」と呼ばれることがある。また当初は遠州沖大地震と呼ばれていたが、東海地域の軍需工場が壊滅的な打撃を受けたことを隠匿するため、「東南海地震」に変更したとする説がある。

 昭和20年前後にかけて4年連続で1000名を超える死者を出した4大地震鳥取地震三河地震、南海地震〉の一つである。一般に死者・行方不明者は1223名を数えたとされる。東南海地震震源域で発生した前回の巨大地震である安政東海地震から90年ぶりでの発生となっている。

 地震による家屋の倒壊、地震直後に発生した津波により、三重県、愛知県、静岡県を中心に、推定1223名の死者・行方不明者を出したとされているが、死者数は重複があり、918名とする説もある。これは、戸籍などが津波により消失しているため現在でも正確な実数は把握できない。行政機能が麻痺したため、死亡届を出さずに、現在に至っている例も散在する。
 この地震によって関東大震災のような大規模な火災は発生しなかった。これは建物倒潰が比較的少なかったこと、発震時刻が昼過ぎであり火を使っている場所が少なかったこと、天候が穏やかで風が弱かったこと、更に第二次世界大戦中で人々の緊張が高まっていたことなどが要因として挙げられている。

 愛知県半田市中島飛行機の山方工場、名古屋市南区三菱重工業道徳飛行機工場〈後の日清紡名古屋工場、現在は商業施設〉はこの地震によって倒壊し、それぞれ死者130人、60人の被害を出した。この二つの工場は紡績工場を買収して軍需に転用したものであったが、飛行機工場としては狭く、間仕切りや柱を鋸で引いて取り除くなどして空間を確保していた。耐震性を無視した改装工事が倒壊の原因になったとされる。

 三菱重工道徳工場では 全国から集められた動員学徒や朝鮮半島から駆り出された女子勤労挺身(ていしん)隊の少年少女らを含む57名が壊した建物の下敷きとなり命を落とした。過日私は、現地跡に建立された慰霊碑を訪ねた。