ホリショウのあれこれ文筆庫

歴史その他、気になった案件を綴ってみました。

第420話 高家肝煎の旗本・吉良上野介

序文・官位が高い旗本

                               堀口尚次

 

 吉良義央(きらよしなか)は、江戸時代前期の高家(こうけ)〈儀式や典礼を司る役職〉旗本〈高家肝煎(きもいり)=高家の上位〉。元禄赤穂事件の中心人物の一人として著名。題材をとった創作作品『忠臣蔵』では敵役として描かれる場合が多い。幼名は三郎、通称は左近。従四位上左近衛権少将、上野介(こうずけのすけ)。一般的には吉良上野介と呼ばれる。上野国の長官〈上野守(かみ)〉は親王が名乗ることになっていたので、次官である〈介(すけ)〉となり「上野介」となった。

 父の跡をついで4200石の高家となり、後に高家肝煎に列し、官位は従四位上近衛少将まで登ったが、指南していた勅使饗応役(ちょくしきょうおうやく)〈朝廷接待〉の播磨赤穂藩浅野長矩〈内匠頭〉から遺恨ありとして江戸城内で殿中刃傷を受け、浅野は改易・切腹となるも吉良は咎めのないまま隠居した。

 高家職は朝廷への使者として天皇に拝謁する機会があるため、武家にしては、官位は高かった。奥高家高家職〉に就任すると、ただちに従五位下侍従に任じられる。奥高家を務める者の官位・官職は従五位下から従四位下の侍従であることが大半であるが、高家肝煎に就任した者などは最高で従四位上左近衛権少将まで昇った。大半の大名は従五位下であるから、その違いは歴然である。 

 『忠臣蔵』〈赤穂事件〉で知られる吉良義央も、わずか4200石取りながらも、従四位上左近衛権少将だった。赤穂藩浅野長矩は5万3000石を領する大名だが、官位の上では従五位下諸大夫でしかなく、時の幕府の最高権力者側用人甲府15万石を領した柳沢吉保でも従四位下左近衛権少将であり、官位の上では吉良義央の方が両者より上だった

 いつの頃からか三河地方の一部では、領地幡豆郡に黄金堤を築いたとされる治水事業や、富好新田の新田開拓、塩田開発などの治績を義央が行ったという伝承が形成されており、これらを根拠として地元の名君として評価する独特な史観に基づいた教育が行われている。しかし名君であるとするこれらの根拠は近年になって作られたと考えられるものが多い。【所感】かつての所領地には「吉良町〈現在は西尾市編入〉」があり、地元の名君として仰がれている。私は過日、旧吉良町にある吉良家の菩提寺である華厳寺を訪問し、その痕跡に触れてきた。昔の武士は、所領や石高より官位を名誉とすることろがあり、その官位を背に、歯に衣着せぬ言動がまかり通ったのかもしれない。