ホリショウのあれこれ文筆庫

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第609話 蟹工船の過酷な労働環境

序文・労働基準法の適用を受けない漁師

                               堀口尚次

 

 蟹工船は日本で発明され実用化された船で大正5年に和嶋貞二が商業化した。八木亀三郎率いる八木商店は蟹工船で大きな利益を上げ愛媛県で一番の高額納税者になった。

 夏場の漁期になると貨物船を改造した蟹工船と漁を行う川崎船が北方海域へ出て三ヶ月から半年程度の期間活動していた。蟹工船は漁をしていない期間は通常の貨物船として運行しており、専用の船があったわけではない。蟹の缶詰は欧米への輸出商品として価値が高かったため、大正時代から昭和40年代まで多くの蟹工船が運航されていた。

 大正15年9月8日付け『函館新聞』の記事には「漁夫に給料を支払う際、最高二円八〇銭、最低一六銭という、ほとんど常軌を逸した支払いをし、抗議するものには大声で威嚇した」との記述がある。逆に、十分な賃金を受け取ったという証言もある。『脱獄王 白鳥由栄の証言』において、白鳥は収監以前に働いていた蟹工船について「きつい仕事だったが、給金は三月(みつき)の一航海で、ゴールデンバット一箱が七銭の時代に三五〇円からもらって、そりゃぁ、お大尽様だった」と述べている。1926年に15歳で蟹工船に雑夫として乗った高谷幸一の回想録では陸で働く10倍にもなると述べているが、単調な1日20時間労働で眠くなるとビンタが飛ぶ過酷な環境で大半は1年で辞めるところ、高谷幸一は金のために5年も働いたと証言している。高い給料を貰える代わりに睡眠時間は短く、狭い漁船の中で何カ月も過ごさなくてはならず監禁に近い、ストレスや過労により精神がおかしくなり、陸では温厚な人物ですら、鬼に変えてしまうほど精神的に追い詰められていた

 戦後に労働基準法が出来た後も蟹工船の労働者は労働基準法第41条第1号の労働時間・休憩・休日規定の適用が除外される労働者として扱われ、労働基準法の適用を受けられるようになるには昭和43年運輸省令第四十九号「指定漁船に乗り組む海員の労働時間及び休日に関する省令」まで待たなければならなず、蟹工船の労働者は終焉直前まで工場法の適用を受ける工員でもなければ船員法の適用を受ける船員でもなく労働基準法の適用を受けない漁師として扱われていた。