ホリショウのあれこれ文筆庫

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第725話 神功皇后社の由緒

序文・初の女帝

                               堀口尚次

 

 筆者の地元・愛知県知多市に、「神功(じんぐう)皇后社」という小さな神社があり、「皇后の井」という井戸跡が残る。立札の「知多の歴史 八幡の語り草より」によると、

神功皇后社は、人皇十四代仲哀天皇の皇后で第十五代応神天皇八幡大神〉の母君である神功皇后をご祭神としております。

 この皇后は光明皇后貞明皇后とともに、日本三大皇后のお一人として有名で特に安産の神として崇めれれております。今から三百年程前、一人の修験者が杉山村を訪れ、清水がこんこんと湧き出る清浄な森に神功皇后の分霊を祀り毎日信心するがよかろう、ことに安産を願う者、子宝を望む者は、小豆飯を供えるべし、必ずや霊験があると告げ旅立った。それから毎年十二月の始めの寅卯の日に近在の人が小豆飯を供え安産を祈願するようになり、この小豆飯をいただくと難なく、やすらかに子宝を得るえお言われ、安産を願う人々の参拝が絶えなかったと伝えられております。

「皇后の井」昔は安産を祈願する人々はこの井戸水で身を浄めてからお参りしたとあります。又常に清らかな水を湛えていたと言われております。

「清水が丘」という地名もここから名付けられたものです。』とある。

 神功皇后は、日本の第14代天皇仲哀天皇の皇后。『日本書紀』での名は気長足姫尊で仲哀天皇崩御から応神天皇即位まで初めての摂政として約70年間君臨したとされる。なお、実在したとすれば広開土王(こうかいどおう)碑(ひ)文、三国史記や七支刀(しちしとう)に加えて纒向(まきむく)遺跡の廃絶年代、陵墓の年代などからも総合して4世紀後半頃と見ることが出来る。

 明治時代までは一部史書〈『常陸国風土記』『扶桑略記』『神皇正統記』〉で第15代天皇、初の女帝〈女性天皇〉とされていたが、大正15年の皇統譜令〈大正15年皇室令第6号〉に基づく皇統譜より正式に歴代天皇から外された。摂政69年目に崩御

 明治から太平洋戦争敗戦までは学校教育の場で実在の人物として教えられていたが、現在では実在説と非実在説が並存している。