ホリショウのあれこれ文筆庫

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第737話 継体天皇と淡墨桜

序文・伝承の天皇のお手植え桜

                               堀口尚次

 

 継体天皇は、日本の第26代天皇

 諱はヲホド。『日本書紀』では男大迹王(をほどのおおきみ)、『古事記』では袁本杼命(をほどのみこと)と記される。また、『筑後国風土記逸文に「雄大天皇(をほどのすめらみこと)」、『上宮記逸文に乎富等大公王(をほどのおおきみおう)とある。 なお、隅田(すだ)八幡神社和歌山県橋本市〉蔵の人物画像鏡銘に見える「孚弟王」は継体天皇を指すとする説がある。別名として、『日本書紀』に彦太尊(ひこふとのみこと)とある。漢風諡号継体天皇」は代々の天皇とともに淡海三船により、熟語の「継体持統」から継体と名付けられたという。継体天皇が現在の皇室までつながる天皇系統の始まりとする説がある。

 記紀によれば、応神天皇の来孫であり、『日本書紀』の記事では越前国、『古事記』の記事では近江国を治めていた。本来は皇位を継ぐ立場ではなかったが、四従兄弟にあたる第25代武烈天皇が後嗣を残さずして崩御したため、大伴金村物部麁鹿火(もののべあらかひ)などの推戴(すいたい)を受けて即位した。

 先帝とは4親等以上離れてかつ傍系(ぼうけい)で即位した最初の天皇とされている。戦後、天皇研究に関するタブーが解かれると、5世王というその特異な出自と即位に至るまでの異例の経緯が議論の対象になった。その中で、ヤマト王権とは無関係な地方豪族が実力で大王位を簒奪(さんだつ)して現皇室にまで連なる新王朝を創始したとする王朝交替説がさかんに唱えられるようになった。一方で、傍系王族の出身という『記紀』の記述を支持する声もあって、それまでの大王家との血縁関係については現在も議論がある。

 岐阜県の「根尾谷淡墨(うすずみ)桜」は樹高17.3m、幹回9.4mの大木は、山梨県の「山高神代桜」と福島県三春滝桜」と並んで日本三大桜のひとつに数えられ、国の天然記念物に指定される。樹齢1500余年を誇る孤高の桜。継体天皇お手植えの桜と伝えられ、薄いピンクのつぼみが、満開になれば白に、そして散り際には淡い墨色になることから淡墨桜と名付けられたと言われている。

 伝承によると、467年〈雄略(ゆうりゃく)天皇11年〉頃に男大迹王〈後の継体天皇〉がこの地を去る時、檜隈高田皇子(ひのくまのたかたのみこと)〈宣化(せんかん)天皇〉の産殿を焼き払い、その跡に1本の桜の苗木を植えたという。