ホリショウのあれこれ文筆庫

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第932話 岡っ引

序文・幕府非公認

                               堀口尚次

 

 岡っ引(ぴき)は、江戸時代町奉行火付盗賊改方(ひつけとうぞくあらためかた)など、警察機能の末端を担った非公認の協力者を指す俗称である。

 奉行所から十手を授かる少数の正式な十手持ちは“小者”と呼ばれ、大多数を占める定町(じょうまち)廻り同心が個人的に雇用する非公認の“御用聞き”とは区別されていた。正しくは江戸では「御用聞き」、関八州では「目明(めあ)かし」、上方では「手先(てさき)」あるいは「口問(くちと)い」、と各地方で呼称は異なった。は「岡目八目」と同じく脇の立場の人間であることを表し、公儀の役人である同心ではない脇の人間が拘引(こういん)することから岡っ引と呼ばれた。岡っ引は配下に手下、下っ引と呼ばれる子分を持つ事も多かった。※「岡目八目」とは、事の当事者よりも、第三者のほうが情勢や利害得失などを正しく判断できること。囲碁から出た語。碁をわきから見ていると、実際に打っている人よりも、八目も先まで手を見越すという意から。「岡目」は他人がしていることをわきで見ていること。「目」は基盤の目の意。「岡」は「傍」とも書く。

 本来「岡っ引」は蔑称(べっしょう)で、公の場所で用いたり自ら名乗る呼称ではない。下っ引きを配下とすることから「親分さん」が正しい呼称。

 起源は軽犯罪者の罪を許し手先として使った「放免である。武士は市中の落伍者・渡世人の生活環境・犯罪実態について不分明なため、捜査の必要上、犯罪者の一部を体制側に取り込み情報収集のため使役する必要があった。江戸時代の刑罰は共同体からの追放刑が基本であったため、町や村といった公認された共同体の外部に、そこからの追放を受けた無宿の者〈落伍者・犯罪者〉の共同体が形成され、その内部社会に通じた者を使わなければ捜査自体が困難だったのである。必然的に博徒・エタ・的屋などのやくざ者や、親分と呼ばれる地域の顔役が岡っ引になることが多く、両立しえない仕事を兼ねる「二足のわらじ」の語源となった。奉行所の威光を笠に着て威張る者や、恐喝まがいの行為で金を強請(ねだ)る者も多く、たびたび岡っ引の使用を禁止する御触れが出た。

 江戸では非公認な存在であったが、それ以外の地域では地方領主により公認されたケースも存在している。例えば奥州守山藩では、目明しに対し十手の代わりに帯刀することを公式に許可し、かつ、必要経費代わりの現物支給として食い捨て〈無銭飲食〉の特権を付与している。