ホリショウのあれこれ文筆庫

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第681話 百官名と東百官

序文・武士のステータス

                               堀口尚次

 

 百官名(ひゃっかんな)は仮名(けみょう)の一種。家系や親、本人の官職名を用いるもの。

 鎌倉時代より朝廷が儀式や法会の資金を調達するため、金銭と引き換えにして衛府(えふ)や馬寮(めりょう)の三等官〈尉(い)、允(じょう)〉に御家人を任官させたり有力御家人を名国司〈実体のない国守の名称〉に補任することがたびたび行われ、武士の間に官名を称することが普及していく南北朝時代には南北両軍の将帥が配下の武将の叙位任官をそれぞれの朝廷に取り次いで与える慣行〈官途書出〉があったが、室町時代以降になると、守護大名が被官に官途状を発給して受領名〈国司の官名〉を授与し私称を許す事例が現れた。これは朝廷が補任した正規の官職ではないため、公式の場では官名を略したり違う表現に置き換えたりした。また、「左衛門」「兵衛」などの、武士の間で用いられることの多かった衛府の官名に、「太郎」「次郎」などの輩行名を冠した呼称を、主君が家臣に与える慣習〈仮名書出〉も現れる。先祖が補任された官職や主家から与えられた官名を、子孫がその家督を継承した表象としてそのまま用いるケースも見られるようになる。「名字+官名」というパターンは、人物〈武士〉を指す最も一般的な呼称としてもはや欠かすことのできないものとなったのである。

 こうして親の官職や家代々の官名を名乗るという意味を持つ百官名が広く武家社会の習慣として定着した。しかし、百官名は必ずしも正式な官名ではなかった。武士階級の中でも朝廷から正式な任官を受けられる者は一握りであり、武士が官名を私称する行為〈自官〉が広く行われた。稀なものとして例えば戦国時代の尾張守護代織田信友の家老に織田三位なる人物があり、また織田信長の兵法の師にも平田三位なる人物があって、これも正式な位階ではない点で一種の百官名とみなすことができる。なお、百官名は通常名字の次、諱の前に入れて名乗る。正式な官名とは若干異なる読みをするものもある〈例:蔵人は、官職は“くろうど”、百官名は“くらんど”〉。

 特に戦国時代に各地の大名・領主が戦力及び地域支配機構の末端として村落上層階級などを取り込んでいった結果、武士階級は厳格性を失って範囲を拡大し、新興武士層を中心に「大膳」や「修理」など官衙名のみ、あるいは「将監」「将曹」など官職の等級のみを称したり、「助」や「丞」など官職の等級を名乗りの一部とする風習が広がって、本来の官職名の一部を用いた百官名もしくは官名由来の名乗りも多く見られるようになっていった 。特に関東地方では百官名と並んで「頼(たの)母(も)」や「一学」などの擬似官名〈一見官名風の仮名〉が発達し、広く武家社会に定着していった。

 東百官(あずまひゃっかん)は、関東地方において武士が称した官職風の人名。朝廷の官職を模倣してつくられたもので朝廷における官職には存在しない百官名と同じように、名字の後、諱の前に入れて名乗った。

 別名、相馬(そうま)百官ともいい、平将門が新皇を称して関八州に半独立政権の樹立を図った際に設けた官職体系であるという伝説もある。

 朝廷の律令官制に基づいた公卿百官に対して、関東における官職風の人名であることから、東百官武家百官ともいわれた。本来、武士の任官は幕府を経由して朝廷に申請され、陪臣(ばいしん)〈家臣の家臣〉・郎従(ろうじゅう)が官職を授かることは無かったが、応仁の乱以後、大名が家臣に勝手に百官名を与える例が現れたほか、実際の四等官に類似した名乗りを創作して与える場合もあった。こうした武家社会で用いられた歴史的な根拠のない創作の官職風の名乗り東百官と呼んで実際の官職名と区別した。江戸時代においても広く使用されたため、江戸時代の学者は「由緒正しからず、名乗るべからず」と警鐘を鳴らしたが、やがて有力な武家や名門の子弟までもがこれを使用するに至った。