ホリショウのあれこれ文筆庫

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第959話 猿田彦神社の論争・謎

序文・猿田彦神の居場所

                               堀口尚次

 

 猿田彦神社は、三重県伊勢市伊勢神宮内宮の近くにある神社である。猿田彦大神(サルタヒコノカミ)と、その子孫の大田命(オオタノミコト)を祭神とする。旧社格無格社社格がないという意味ではなく「無格社」という社格〉で、第二次世界大戦後は別表神社(べっぴょうじんじゃ)となった。

 日本神話によれば、猿田彦神はニニギの天降りの先導を終えた後、伊勢の五十鈴川の川上に鎮まった。『倭姫命世記(やまとひめのみことせいき)』によれば、その子孫の大田命は天照大神を祀る地として倭姫命五十鈴川川上の地を献上した。大田命の子孫は宇治土公(うじのつちぎみ)と称し、神宮に玉串大内人として代々奉職したが、その宇治土公が邸宅内の屋敷神として祖神の猿田彦を祀っていた。

 明治時代に入り、神官の世襲が廃止されることになって、屋敷神を改めて神社としたのが猿田彦神社である。

 全国約2千社の猿田彦大神を祀る神社の総本社「地祗猿田彦大本宮」は鈴鹿市椿大神社(つばきおおかみやしろ)ということになっている〈昭和10年内務省神社局調査〉。椿大神社宮司は山本という名字で、猿田彦神社宮司は宇治土公(うじつちのきみ)という氏姓である。延暦期成立と見られる『皇太神宮儀式帳』や後三条朝までの編年記事が見える『大神宮諸雑事記』では、宇治土公は大田命の子孫であるとだけ主張しており、「児島系図」では久斯比賀多命三世孫の久斯気主命を祖とし、石部公(いそべこう)や狛人部と同族であるとされる。ところが、鎌倉時代成立と見られる『伊勢二所皇太神宮御鎮座伝記』で突然「猿田彦大神は宇遅土公氏遠祖の神なり」と記されるようになり、『倭姫命世記』でも「猿田彦神の裔宇治土公氏の祖大田命」と主張するようになり、大田命の祖として猿田彦命が架上されたと見られる。

 猿田彦神社が神宮内宮の近くにあることや、猿田彦大神を祀る各地の神社で椿大神社とつながりのある神社は少数しか存在しないことから猿田彦神社猿田彦神を祀る神社の総本社と考える者も多い。〈「椿大明神」を祭る「椿神社」は全国各地に存在している〉

 なお『延喜式神名帳』に記載されている「椿大神社」は、都波岐(つばき)神社・奈加等(なかと)神社とする説もあり論争になっている。