ホリショウのあれこれ文筆庫

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第837話 節婦・下村とう刀自

序文・国の誇り・婦人の手本

                               堀口尚次

 

 下村とうは、天保14年に常滑村〈愛知県常滑市〉に生まれ、貧しいながら両親の深い愛情のもとに幼児期を送ったが、7才の時父と死別し苦難の人生が始まった。16才の時、船乗りを業(なりわい)とする下村徳五郎に嫁(か)し、祖父母を養いながら夫の留守を守っていたが、その内別居していた夫の生母トネが、二児を連れて寄食するようになった。姑(しゅうとめ)のトネは、わがままな性格で何かととうを苦しめたが、いやな顔ひとつ見せずよく仕え、病弱の上に酒飲みの祖父の面倒もみながら家計を支えるために昼は日雇いに出、夜は機織(はたお)りをして働き続けた。船乗りの夫はめったに家に帰らずその上稼いだ金は遊びに使って家に入れなかった。 その夫が遭難死してからは、再婚を勧める人もあったが、貞節(ていせつ)を守って聞かず、文字通り女手ひとつで家を守り、姑に仕え祖父母の面倒を見続けた。その内祖母に死なれ、姑のトネも病の床についた。散々虐(いじ)めぬかれた姑ではあるが、とうは熱心に看病したので、さすがのトネも涙を流して感謝したという。やがて妻を追うように祖父も倒れ、その上頼りにして迎え入れた亡夫(ぼうふ)の異父弟(いふてい)にも死なれ、相次ぐ葬儀も立派に果たし、病気で盲目となったトネに対しては、死ぬまで献身的な看病を続けた。トネの死後は異父弟の嫁とその娘の女だけの家族となったが、とうはその中心となって家計をきり回した。こうした立派な生活ぶりは、近隣の評判となっていたが、明治27年日清戦争が起こると、とう愛国の情を抑えることが出来ず、身を粉にして稼いだ金の一部を赤十字などに寄付したのである。このことは明治37年日露戦争の時まで続いたが、寄付に当たっては自分の名前を出さず、日頃信仰していた真福寺住職の名を借りて行った。このように女の身で、あらゆる困難や貧乏と戦い、病弱の祖父母を養い姑に仕えて、妻として健気(けなげ)に生き続け、その上愛国の情深く慎(つつし)み深いとうの人柄は、村民の口から当局まで聞こえ、国の誇りであり、婦人の手本だと、明治33年に賞勲局より特賞の栄(ほまれ)を賜ったのである。

 その後、やっと平安な生活に恵まれた下村とうであったが、昭和2年85才の生涯を終え常滑の正住院に葬(ほうむ)られた。墓碑の戒名は院号である「慈徳院雄空貞仁大姉」。これは浄土宗西山派管長大僧正・白井晢空によるものである。

※節婦(せっぷ)とは、節操〈自分の信じる主義主張などを守りとおす〉のある婦人の意。

※刀自(とじ)とは、女性を尊敬または親愛の気持ちをこめて呼ぶ称。