ホリショウのあれこれ文筆庫

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第975話 沈勇・佐久間勉

序文・職責を全う

                               堀口尚次

 

 佐久間勉(つとむ)明治12年明治43年〉は、大日本帝国海軍軍人。最終階級は大尉。艇長として事故で殉職し、修身科教科書にも掲載された滋賀県三方郡前川村〈現:福井県三方上中郡若狭町北前川〉出身。第六潜水艇が訓練中に事故を起こし、乗組員14人全員が殉職した。

 殉職した乗組員は、ほぼ全員が自身の持ち場を離れずに死亡しており、持ち場以外にいた乗組員も修繕に力を尽くしていた。佐久間自身は、艇内にガスが充満して死期が迫る中、潜望鏡より入る微かな光の中で小さな手帳に、明治天皇に艇の喪失と部下の死を謝罪し、続いてこの事故が潜水艇発展の妨げにならないことを願い、事故原因の分析を記した後、次のような遺言を書いた。

『謹ンデ陛下ニ白ス 我部下ノ遺族ヲシテ窮スルモノ無カラシメ給ハラン事ヲ

 我念頭ニ懸ルモノ之レアルノミ』

 その後、「左ノ諸君ニ宜敷」と斎藤実〈海軍大将・後の内閣総理大臣〉をはじめとする当時の上級幹部・知人の名を記し、12時30分の自身の状態を、そして「12時40分ナリ」と記して絶命した。佐久間が記した遺書は39ページにも及ぶ長いものだった。佐久間の上着のポケットから見つかり、沈没した艇が引き上げられた後に発表された遺書は、当時の国内外で大きな反響を呼んだ。国外〈主にヨーロッパ〉では同様の事故の折、脱出しようとした乗組員が出入口に殺到し、乗組員同士で殺し合うなどの悲惨な事態が発生していた。それゆえ、出入口へ殺到せずに最期まで修繕しようとしていた佐久間および乗組員の姿は大きな感銘を与え、各国から多数の弔電が届いた。

 国内では長らく修身の教科書に「沈勇」と題して掲載されていたほか、根爪漱石は事故の同年に発表した「文芸とヒロイツク」において、佐久間の遺書とその死について言及していた。

 今日でも佐久間の命日である4月15日には、出身地の若狭町の佐久間記念交流会館で遺徳顕彰祭が行われている。海上自衛隊舞鶴地方隊舞鶴音楽隊による演奏や、イギリス大使館付武官によるスピーチが行われている。同様に呉市の鯛(たい)乃(の)宮(みや)神社境内の第六号潜水艇殉難之碑〈艇の部品が保存されている〉、前日の14日には岩国市の第六潜水艇殉難者記念碑でも慰霊の式が行われている。