ホリショウのあれこれ文筆庫

歴史その他、気になった案件を綴ってみました。

第572話 松平郷

序文・徳川家のルーツ

                               堀口尚次

 

 松平郷は、三河国戦国大名から江戸幕府の将軍家へと発展する松平氏・徳川氏の発祥地の郷である。巴川〈足助(あすけ)川〉東岸の山地の中の小集落で、三河国加茂郡に属し、現在の愛知県豊田市松平町にあたる。一帯に残る館跡、城跡等は松平氏遺跡として国の史跡に指定されている。

 徳川の家譜などでは、松平親氏(ちかうじ)が松平郷に到来したとなっているが、松平の村落名の初見は、天文元年8月29日の足助町四ツ松の十明神社唐櫃銘の三州松平に住む前出雲守沙弥道悦〈松平長親(ながちか)=家康の高祖父〉が奉納したとするものである。それに対して、松平氏の姓名のほうは、親元(ちかもと)日記〈室町時代の政所(まんどころ)執事代・蜷川親元の日記〉に、寛政6年5月26日松平和泉入道〈信光〉とあるのが初見。また、寛正年間に菅浦文書から、松平益親という人物がいたこともわかっている。

 15世紀以前の松平郷についての詳細は明らかではない。後世まとめられた松平氏の系譜によると、賀茂神社系の賀茂氏の末裔に当たる松平信盛が松平郷を開拓しその領主となり、松平太郎左衛門少尉を通称とした。つまり松平郷領主の松平氏である。

 14世紀の末に南北朝時代の争乱で没落した世良田氏〈得川〉の出身と称する時宗の放浪僧の徳阿弥が父の長阿弥〈世良田有親〉とともに現地に流れ着き、当時の松平郷領主である松平信重〈信盛の後裔の松平信頼の子〉は徳阿弥の和歌に通じた教養と武勇を買う。徳阿弥は還俗し、その娘婿となり松平太郎左衛門親氏と名乗り、松平郷領主の松平氏名跡を相続したという。親氏は松平郷の一角に松平城〈郷敷城〉を築き、その嫡子〈実際は弟か叔父〉とする泰親(やすちか)とともに近隣十数か村を切り従えたと伝えられるが、親氏は実在したかどうか疑問をもたれている。泰親を継いだ信光は額田(ぬかた)郡に進出し、岩津城〈岡崎市岩津町〉に本拠地を移した。このときの松平郷は、泰親の子で、信光の叔父〈実際は親氏の子で、信光の長兄〉の松平信広に譲られた。信広の子孫は松平郷を世襲し、代々「松平太郎左衛門」を通称として、松平郷松平家挙母松平家〉となった。


 

第571話 徳川家康の継父・久松俊勝

序文・於大の方が再嫁したところ

                               堀口尚次

 

 久松俊勝は、戦国時代の武将。尾張国知多郡の坂部城主〈阿久比城:愛知県阿久比町卯坂〉。初名は定俊及び長家徳川家康の生母・伝通院〈於大の方の再婚相手として知られる佐渡守を称した。『東照宮御実紀』巻二には、尾州の智多郡阿古屋の久松佐渡守俊勝とある。

 尾張国守護斯波(しば)氏に仕える国人(こくじん)領主〈在地の領主〉であった久松氏は、戦国時代には大野城〈愛知県常滑市北部〉を本拠とする佐治氏と争っていた。しかし俊勝は天文15年佐治氏の一族より長子・信俊の妻を迎えることで和睦した。これは松平広忠〈家康の父〉の仲介によるものとする記述がある。また古文書などから従来織田方として見られていたが、広忠と同心していたことも明らかになっており、織田方との提携とともに松平氏とも提携していたと思われる。

 俊勝は、桶狭間の戦い後に松平元康〈広忠と伝通院の子、後の徳川家康〉に与す、永禄5年今川氏の重臣・鵜殿長輝が守る三河国宝飯郡(ほいぐん)西郡(にしのこおり)の上之郷(かみのごう)城〈愛知県蒲郡市神ノ郷町〉を攻略した。西郡の領主となった俊勝は、信俊〈長男〉に阿久比を譲り、上ノ郷城には於大との間に生まれた次子・康元を置いた。この時期の発給文書には「長家」の名が見え、また佐渡守を名乗っていたことがわかる。

 「俊勝」への改名はこれ以降と考えられるが、詳細は不明である。また、松平元康は永禄六年に「家康」と改名するが、家康の"家"の字は継父である久松長家より一字を得たものであったが、後年大名に成長した家康を憚(はばか)って長家の方が「俊勝」と改名。さらに、家光以後に徳川将軍家にとり「家」の通字〈諱(いみな)〉が重要となり由来を隠したため、その由来が分からなくなってしまったとする説もある。

 後に織田信長から竹田勝頼への内通の疑いをかけられた水野信元〈家康には伯父、俊勝には義兄にあたる〉が家康を頼ってくる。しかし、家康は信長の命により同盟を重視して信元と養子の元茂を岡崎城に呼び出し切腹により自害させる。後に事情を知って激怒した俊勝はそのまま上之郷城に隠退してしまった。晩年には三河一向一揆で追放された一向宗寺院の三河復帰に尽力したという。

 俊勝の子女は、庶長子(しょちょうし)〈正室の子でない長男〉の信俊をはじめ、また伝通院於大の方徳川家康の母〉との間の子として松平姓を名乗った松平康元松平康俊、多劫姫、松平定勝、松姫、天桂院、その他二女である。俊勝隠遁の原因となった水野信元暗殺は、佐久間信盛の讒言(ざんげん)を受けたものであるとされているが、庶長子の信俊も信盛の讒言を受け自害に追い込まれ、居城の坂部城は信盛の軍勢によって攻め落とされ、信俊の子供達も殺害されている

 俊勝の墓所は、坂部城址近くの阿久比町大字卯坂字英比67番地の洞雲(とううん)院にある。以下に一部重複するが、信俊が自害に追い込まれた経緯と、信俊の子女について記す。

 信俊の父・俊勝は、松平元康〈後の家康〉の招きを受けてその家臣となり、於大ら妻子を連れて三河国に入った。織田信長と元康が清須同盟を結ぶと、阿久比の地は織田氏支配下となり、家康と血縁のない信俊が坂部城〈阿久比城〉と尾張国内の久松氏の所領をもって信長に仕えることになった。

 石山合戦の際には佐久間信盛の指揮下で石山本願寺を攻めていたが、信盛の讒言によって突如信長から謀反の疑いをかけられ、憤慨して大阪四天王寺において自害を遂げてしまう。信俊の死の直後、信盛の軍勢は坂部城を攻め落とし、信俊の子供達のうち2人を殺害した。しかし胎児であった末子・信平は生母と共に保護され、外祖父佐治対馬守の許で出生したという。またその子・信綱は松平定勝に仕え、子孫は伊予国松山藩家臣となった。

 追記:坂部城は、徳川家康の生母・於大の方が、城主・久松俊勝と再婚し、15年間暮らした城。その間、熱田や駿府で人質の身であった家康に、励ましの手紙や衣類を送り続け、後に家康の運命や人間形成に大きな影響を与えたと言われている。また、桶狭間の戦いを控えた永禄3年年5月17日、於大の方と家康当時、松平元康はこの地で母子16年ぶりの感激の再会を果たしたと伝えられてい

 私は過日、坂部城址と洞雲院を訪れ、松平家・徳川家・織田家に翻弄された久松家の菩提を弔うと共に、戦国時代の陰に隠れ、悲惨な運命を辿った武将の子女を偲んだ。

 

第570話 征夷大将軍=大樹

序文・岡崎城にほど近い大樹寺

                               堀口尚次

 

 大樹寺は、愛知県岡崎市鴨田町にある浄土宗の寺院。 徳川氏〈松平氏菩提寺であり、歴代当主の墓や歴代将軍位牌が安置されている。正式には成道山松安院大樹寺と称する。

 応仁元年8月23日、尾張品野、三河伊保の軍兵が大挙して井田野に攻め寄せた。安城松平家当主の松平親忠は500余騎でこれを迎え撃ち、一夜と半日の戦いで破った。この第一次井田野合戦おける戦死者を弔うため、親忠は現在の岡崎市鴨田町字向山の地に千人塚を築いた。

 その後、文明7年になって、塚が振動し、近辺には悪病が流行するようになった。この亡霊を弔うために親忠は塚のほとりに念仏堂を建てた。そして、鴨田の旧館址に一寺を建立した。増上寺開山聖聡の孫弟子の勢誉愚底(せいよぐてい)を講じて七日七夜の間、別時念仏を修し、勢誉愚底を開山としてこの一寺を大樹寺と称した。寺号の「大樹」は征夷大将軍唐名(とうめい)〈中国の官称〉であり、寺伝では、松平氏から将軍が誕生することを祈願して勢誉愚底により命名されたと伝えられているが、釈迦入滅地の沙羅双樹にちなんだものとの説もある。

 親忠により大樹寺安城松平氏菩提寺とされた。松平郷の高月院にあった墓から分骨され、親忠は、先代3代であるまつだ松平親氏松平康親松平信光の墓をそれぞれ大樹寺に移設した。なお、信光明寺には現在も親氏、泰親、信光の墓である3基の宝篋印塔(ほうきょういんとう)が残っており、そのため、大樹寺にある3氏の墓は信光明寺から移転したものとも言われている。天文4年、岡崎松平家当主の松平清康により再興され、一層方形二層円形の多宝塔が建立された。

 大樹寺に安置されている江戸幕府歴代将軍の位牌は、それぞれ将軍の臨終時の身長と同じという説がある。なお、15代将軍慶喜の位牌は大樹寺に置かれていない。これは将軍職を引いた後も存命であったことと、臨終に際し自らを赦免し爵位まで与えた明治天皇に対する恩義から神式で葬られることを遺言したためである。当時の平均身長から大きく外れているのは綱吉と家継の位牌であるが、これを根拠に綱吉が低身長であった、家継が高身長であった、などの説が存在する。

 

第569話 徳川(松平)と竹千代

序文・14名いた竹千代

                               堀口尚次

 

 始まったばかりのNHKの大河ドラマ「どうする家康」でいきなり疑問がわいた。徳川家康の幼少名が「竹千代」なのは周知のことだったが、家康の長男・松平信康も竹千代と呼ばれているではないか!調べてみると、安祥松平家及び徳川将軍家の世子は、なんと14名が幼少を「竹千代」と名乗っていたことが判明。祖先の幼名が代々の嫡男〈跡取り息子〉に受け継がれることは、珍しくないようでした。

 こんなことを調べていたら、以前訪れた愛知県碧南市のお寺が「徳川家康の幼名・竹千代を命名した寺」と謳っていたことを思い出した。寺の説明書きによると『称名寺は、松平氏の祖・親氏(ちかうじ)の父・有親(ありちか)がここに閑居したという伝説をもつ。松平六代の総領として安城にあった信忠は有縁の称名寺に帰依し、また庇護した。後、やはり称名寺に閑居し享禄四年この寺で逝去した。また、称名寺は西三河の文化中心の一つで、連歌(れんが)〈戦国武将の間で流行った歌読み〉がしばし興行された。徳川家康の父・松平広忠は、たまたま、天満宮より連歌発句の感夢があり、天文十二年称名寺において、夢想の連歌を興行し、脇句をつけた。この時の連歌一巡を書き上げたのが、広忠夢想の連歌の切である。この脇句より住持(じゅうじ)其阿(きあ)〈称名寺の住職〉が家康の幼名を「竹千代」と差上げた。』とある。

 内容が難しいが要約すると『称名寺連歌の会が行われ、広忠は「神々のながきうき世を守るかな」に対して「めぐりは広き園の竹千代」という句をつけた。この句から家康の幼名を「竹千代」としたと伝えられる。』ということのようだ。

 家康の父・松平広忠の幼名も「竹千代」であり、家康は親子三代に渡り同じ幼名を名乗ることになったのだ。

 更に家康の名前は、竹千代の後は次郎三郎そして蔵人佐その後、諱(いみな)は今川義元より偏諱(へんき)を受けて元信、次いで元康と名乗るが、今川氏から独立した際に家康と名乗った。

 

第568話 松平元信の正室・築山殿(瀬名姫)

序文・今川と松平のはざまで

                               堀口尚次

 

 1月8日に始まったばかりの、今年のNHK大河ドラマ「どうする家康」で登場した「瀬名姫」について調べました。

 徳川家康正室。築山殿の実名は不明である。テレビや小説などでは瀬名(せな)の名があてられるが、当時の史料はもちろん、江戸時代前期に成立した史料にも瀬名の名はみられない。江戸時代中期の元文5年成立の『武徳編年集成』巻三に、「関口或いは瀬名とも称す」と記載されている。一般的には築山殿築山(つきやま)御前、または駿河御前ともいわれる。「築山」の由来は岡崎市の地名である。具体的な場所は『岡崎東泉記』という史料に記載されており、岡崎城の北東約1キロほどに位置する、岡崎市久右衛門町であったとされる。このことから築山殿は同地に独立した屋敷を構え、居住したとみることができる。

 父は関口親永(ちかなが)。母は今川義元の伯母とも妹ともいわれ、もし妹ならば築山殿は義元の姪に当たる。夫の徳川家康よりも2歳くらい年上、低くみても同年齢くらいと推測されている。

 近年では、関口親永と今川氏との婚姻関係そのものの存在を否定する説〈親永の実兄である瀬名氏俊(うじとし)が義元の姉を妻にしたのを誤認したとする〉もあるが、そもそも関口氏自体が御一家衆(ごいっけしゅう)と呼ばれる今川氏一門と位置づけられる家柄であった。家康〈当時は松平元信・その後松平元康に改名〉が今川氏一門である関口氏の娘婿になるということは、今川氏一門に准じる地位が与えられたことを意味していた。

 築山殿は、天文8年から天文9年にかけて出生した可能性が高いとされる。弘治3年正月15日、今川家の人質として駿府にいた松平元信〈後の徳川家康〉と結婚する。永禄2年に松平信康を、同3年に亀姫を産む。

 築山殿の最期は謎が多く、諸説が流布されている。家康が暗殺したのではないかという穏やかでない説まであり、真相は闇の中のようだ。さて、今回の大河ドラマでは、この築山殿の最期をどのように描くのだろうか見ものである。

 

 

第567話 開削された対馬

序文・海軍の都合で開削された

                               堀口尚次

 

 私は、対馬といえば日本海に浮かぶ朝鮮半島に近い島で、沖縄のような一つの島であるイメージであったが、今回人工的に開削された島であることがわかった。

 主島は対馬島で、このほか属島として6つの有人島と102の無人島がある。この対馬島と属島をまとめて「対馬列島」「対馬諸島」とすることがある。

 対ロシア帝国、対ソビエト連邦の防衛上の重要拠点であり、冷戦時代はソ連軍の軍用機や潜水艦が頻繁に出没していた。

 主島はかつて1つの島だったが、地峡〈海峡の逆で2つの陸塊をつなぎ水域海や湖 に挟まれて細長い形状をした陸地〉となっていた部分に運河として、寛文12年に大船越瀬戸が、明治33年に、満関瀬戸が開削され、細長い主島は南北3島に分離された。過去には南部を上島(かみしま)、北部を下島(しもじま)と呼んだこともあったが、現在は万関瀬戸より北部を上島、南部を下島と呼ぶ。

 明治33年に旧大日本帝国海軍によって、浅茅湾内の竹敷港にあった竹敷要港部から佐世保鎮守府までの所要時間を短縮するための航路として開削された。当時は幅約25メートル、深さ約3メートルであった。明治38年に起きた日露戦争日本海海戦では水雷艇部隊がここを通って出撃した。

 明治37年には、日露戦争に備え対馬海峡の重要性から要港部司令官が親補職となり、幕僚として、参謀長、参謀、副官、機関長、軍医長、主計長が配置された。また、バルチック艦隊から浅茅湾を防衛するため、郷山・樫岳・多功崎・廻の各砲台の建設に着手した。日露戦争における日本の勝利を決定的なものとしたことで知られる日本海海戦は、海外では"バトル・オブ・ツシマ"〈対馬の戦い〉の名称で知られている。実際にその名の通り竹敷港や尾崎港からは連合艦隊水雷艇が出撃している。この海戦の砲声は対馬に届いたといわれ、また、上対馬の殿崎・茂木・琴などの住民は、海岸に漂着した多くのロシア兵の救命救助をおこない、宿や食糧を与えている。

 尚、昭和24年、大韓民国〈韓国〉初代大統領の李承晩(りしょうばん)は「対馬は韓国領」として日本に「返還」を要求した。また、第二次世界大戦後に日本を占領した連合国軍総司令部GHQ〉 に対し、「歴史的にこの島は韓国の領土であり、日本によって強制的、不法に占領された」と述べ、日本からの割譲を要求している。

※海軍によって開削された満関瀬戸

第566話 行方不明の北京原人

序文・日本軍の関与は?

                               堀口尚次

 

 北京原人は、中国北京市竜骨山の森林で発見された化石人類である。学名はホモ・エレクトス・ペキネンシス。2015年現在はホモ・エレクトスの亜種として扱われる。北京原人を含むホモ・エレクトスが生きていた時代は更新正中期である。従来は上記の化石の年代は約50万年前とされていたが、最新の研究では約68万-78万年前と推定されている。

 1921年にスェーデンの地質学者 ユハン・アンデショーンとオットー・ズダンスキーが人類のものと思われる歯の化石を発見した。さらに、その後の調査で1929年12月2日、中国の考古学者である裴文中(はいぶんちゅう)が完全な頭蓋骨を発見した。結果的に合計十数人分の原人の骨が発掘された。

 1940年ごろにはロックフェラー財団に支援を受け、北京に設立された北京協和医学院で保管されていたが、日米関係の悪化によりアメリカへの移送が計画された。1941年12月5日、秦皇島から貨客船「プレジデント・ハリソン」に乗せるためアメリ海兵隊の警護を受けつつ港へ移動したが、真珠湾攻撃により戦争が始まったことで「プレジデント・ハリソン」が拿捕され計画は失敗した。北京原人の骨に関心を持っていた日本軍も捜索したが発見することは出来ず、この日以降行方不明となっている

 1941年以降に行方不明となった骨の化石については、「日本軍に押収されたが空襲で焼けた」「中国の何処かに隠されている」「不老長寿の薬として使われた」など多くの仮説を生み謎のままとなっている。

中国政府では、

①移送前の北京協和医学院での目撃例②アメリカ軍が駐留していた天津市にある病院の地下室で頭蓋骨を詰めた可能性がある箱の目撃例③皇居の地下室に保管されている

を有力情報として捜索を継続している。

 1977年には日本軍に押収され阿波丸で輸送中に撃沈されたという説を元に、潜水調査を行ったが発見には至らなかった。

 先の戦争の傷跡は、こんなところにも及んでいたのだ。