ホリショウのあれこれ文筆庫

歴史その他、気になった案件を綴ってみました。

第579話 西郷頼母の生き様

序文・国家老の本分

                               堀口尚次

 

 西郷頼母(たのも)は、家督と家老職を継いで藩主・松平容保に仕えた。文久2年、幕府から京都守護職就任を要請された容保に対し、政局に巻き込まれる懸念から辞退を進言したために、容保の怒りを買う。その後も、藩の請け負った京都守護の責務に対して否定的な姿勢を覆さず、禁門の変が起きる直前に上京して藩士たちに帰国を説いている。ところが、賛同されずに帰国を強いられ、家老職まで解任された上に、蟄居させられる。この解任理由は、無断上京を咎められたからとされるが定かではない。その後、他の家老たちの間で頼母の罪を赦してはどうかと話し合われてもいる。

 明治元年戊辰戦争の勃発によって容保から家老職復帰を許された頼母は、江戸藩邸の後始末の任を終えたのち会津へ帰還する。このとき、頼母を含む主な家老、若年寄たちは、容保の意に従い新政府への恭順に備えていたが、新政府側からの家老らに対する切腹要求に態度を一変。頼母は白河口総督として白河城を攻略し拠点として新政府軍を迎撃し、その後二ヶ月以上にわたり白河口を死守したが、7月2日に棚倉城陥落の責任により総督を解任される。そこで若松城に帰参した頼母は、藩主・松平容保切腹による会津藩の降伏を迫ったため、容保以下、会津藩士が激怒。身の危険を感じた頼母は、長子・吉十郎のみを伴い伝令を口実として城から逃げ出した。この一件に関し、頼母自身は「軽き使者の任を仰せつかり…」、と述べており、越後口の萱野長修(ながはる)の軍への連絡にかこつけた逃亡とされる。家老・梶原平馬が不審に思い、追手を差し向けたが、その任に当たった者たちは敢えて頼母親子の後を深追いせず、結果として追放措置となった。

 明治13年、旧会津藩主・松平容保日光東照宮宮司となると、頼母は禰宜(ねぎ)となり松平容保と頼母は和解した

 母、妹2人、妻、5人の娘は慶応4年8月23日、頼母の登城後に親戚12人と共に自邸で自害した。 この家族の受難は戊辰戦争の悲話として紹介され、そのため頼母は会津藩に最後まで忠誠を尽くした忠臣であるという評価と、家族は潔く自害したのに自身は逃亡し生き長らえたことから、卑怯者、臆病者とされる評価で二分されている。

 

第578話 天中殺

序文・天が味方しない時

                               堀口尚次

 

 天中殺(てんちゅうさつ)とは、四柱推命(しちゅうすいめい)〈中国で陰陽五行説を元にして生まれた人の命運を推察する方法〉と算命学〈中国に発祥した干支暦をもとに、年と月と日の干支を出して、人の運命を占う中国占星術、中国陰陽五行を土台とした運命学の一流派であり、伝統を継承しながら日本で学問として大成された〉内の論であり、干支においてが味方しないとされている。算命学では天中殺と言い、四柱推命では空亡(くうぼう)と言うことが多い。

 六十(ろくじっ)干支(かんし)は6種類の天中殺〈旬〉にそれぞれ分類される。十干(じっかん)〈甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸の10の要素からなる集合〉と十二支〈子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥〉を甲子・甲戌・甲申・甲午・甲辰・甲寅から10個ずつ組み合わせていくと、十干と組み合わない十二支が2つ残る。この2つがそれぞれの天中殺の十二支となる。甲子から癸酉までの10個の干支〈甲子旬〉では、戌・亥の2つの十二支は組み合う干を持たなく、戌・亥は甲子旬における空亡となり「戌亥天中殺」となる。同様に、甲戌日から癸未日生まれの人〈甲戌旬〉にとっては申・酉が組み合う干を持たないため、申・酉が空亡となり「申酉天中殺」となる。

 元々は干支を使った占い(四柱推命など)における用語で「空亡」と言っていた。「亡空(ぼうくう)」と言われることはほとんどないが「空亡」「亡空」の間に両方の言い方があった。これを占いに用いる説の出処・由来は明確ではないが、中国清代に沈考贍が記した四柱推命の書物『子平真詮』は空亡を否定していることから、それ以前より存在していたと推測される。その後、日本では高尾義政が高尾流算命学を創始した際、空亡を「天中殺」と言い換えた。高尾義政の弟子神熙玲(じんきれい)は更に文字を変え「天冲殺」とした。

 算命学における天中殺・四柱推命のおける空亡、共に地支・その時間帯の出し方は同じであるが、応用が異なる。算命学においては「限定されない気で、無限の気であり、物事は意に反して動く気」とされており、四柱推命においては「あってなきが如し」とされている。

 

第577話 徳川宗家第16代当主・徳川家達の運命

序文・世が世なら将軍様

                               堀口尚次

 

 德川家達(いえさと)文久3年 - 昭和15年は、日本の政治家。徳川宗家第16代当主。もとは御三卿田安徳川家第7代当主で、静岡藩の初代藩主。幼名は亀之助。号は静岳。位階・勲等・爵位従一位大勲位侯爵。世間からは「十六代様」と呼ばれた。文久3年、江戸城田安屋敷において、田安家第5代当主・徳川慶頼の三男として誕生した。幼名は亀之助。慶頼は第14代将軍・徳川家茂将軍後見職であり、幕府の要職にあった。母は高井武子。家達は家茂および第13代将軍・徳川家定の再従兄弟(またいとこ)〈はとこ〉にあたる。元治2年、実兄・寿千代の夭逝(ようせい)により田安家を相続する。慶応2年に将軍・家茂が後嗣(こうし)〈跡継ぎ〉なく死去した際、家茂の近臣および大奥の天璋院や御年寄・瀧山らは家茂の遺言通り、徳川宗家に血統の近い亀之助の宗家相続を望んだものの、わずか4歳の幼児では国事多難の折りの舵取りが問題という理由で、また静観院宮〈和宮〉、雄藩大名らが反対した結果、一橋家の徳川慶喜が第15代将軍に就任した。大政奉還・王政復古・江戸開城を経て、慶応4年、新政府から慶喜に代わって徳川宗家相続を許可され、一族の元津山藩主・松平斉民(なりたみ)らが後見役を命ぜられた。当時、数え年で6歳だったが亀之助を改め、家達と名乗ることになった。

 約100人を共にした行列を連れて江戸を出発し、徳川家所縁の地である駿河府中へ向かった。6歳の家達に随行した者は以下のように記録している。「亀之助殿の行列を眺める群衆、それが何だか寂しそうに見えた。問屋場はいずれも人足が余計なほど出て居る。賃銭などの文句をいふ者は一人半個もない。これが最後の御奉公とでも云いたい様子であった。途中で行逢ふ諸大名も様々で、一行の長刀を見掛けて例の如く自ら乗物を出て土下座したものもある。此方は乗物を止めて戸を引くだけのこと。そうかと思へば赤い髪を被って錦切れを付けた兵隊が、一行と往き違いざまに路傍の木立に居る鳥を打つ筒音の凄まじさ。何も彼も頓着しない亀之助殿であった」。また年寄女中の初井は、駕籠の中から五人囃子の人形のようなお河童頭がチョイチョイ出て「あれは何、これは何」と道中の眺めを珍しげに尋ねられ、これに対して、左からも右からもいろいろ腰をかがめてお答え申しあげたと伝えている。

 6歳の家達にしてみれば、世が世であれば江戸幕府将軍様であったのだ。

徳川家達徳川慶喜

第576話 苗木藩の禍根

序文・行き過ぎた廃仏毀釈

                               堀口尚次

 

 苗木藩は、現在の岐阜県中津川市苗木に存在した、最小の城持ち。居城は苗木城。美濃国恵那郡の一部と賀茂郡の一部を領地としていた。

 藩政においては小藩ゆえの、幕府の相次ぐ手伝い普請や軍役などにより、財政窮乏(きゅうぼう)が早くから始まる。歴代藩主は藩政維持のため厳しい倹約令を出し、天保年間には給米全額の借り上げを行うなどした。

 明治維新後、14万3千両、藩札1万5900両あった藩の借金は、苗木城破却に伴う建材や武具などの売却、藩士卒全員を帰農、家禄奉還させ家禄支給を削減し、さらには帰農法に基づいて旧士族に政府から支給される扶持米を大惨事〈現在の副知事〉以下40名が3年間返上させること、知藩事〈現在の都道府県知事〉遠山友禄(よもよし)の家禄の全額を窮民救済と藩の経費とすることにより、明治4年8月には5万2600両、藩札5千両にまでに縮小した。しかし旧苗木藩士の生活は年々逼迫(ひっぱく)し、自殺者まで出る事態となった

 さらに明治4年廃藩置県により、苗木藩は苗木県を経て岐阜県に吸収され、当初約束されていた家禄奉還の補償は不可能となった。また明治政府からではなく苗木藩庁の指示により他藩よりいち早く家禄奉還して、全員が士族から平民へ移っていたため、旧藩士卒は旧士族として認められないという事態に陥った。このことなどにより、財政改革や後述する廃仏毀釈を主導した大参事・青山直道に恨みが集中し、明治9年に旧藩士4名が青山の暗殺計画を決行、当人は当日不在だったため屋敷に放火される。明治24年にも襲撃未遂事件が起こっている

 維新直後、平田派国学の影響を受けた藩政改革が図られ、青山景道、青山直道の親子らが先頭に立って、領内で徹底した廃仏毀釈が実行された。明治3年9月27日、苗木藩庁は、支配地一同が神葬改宗したので、管内の15か寺の廃寺と、その寺僧たちに還俗を申し付けたことを、弁官〈中央役人〉に届けた。

 岐阜県東白川村役場脇にある「四つ割りの南無阿弥陀仏」。苗木藩の廃仏毀釈時に4つに割られて庭石などにされたのち、廃仏毀釈後に破片を集め修復されたもの。中央に割った時の跡が残る。

 

第575話 厭離穢土 欣求浄土

序文・松平家菩提寺

                               堀口尚次

 

 「厭離穢土(おんりえど) 欣求浄土(ごんぐじょうど)」の言葉は戦国時代、徳川家康の馬印〈戦場や行軍で自分の位置を示したり、味方の士気を鼓舞するため、軍旗のほかに用いた、木や竹などの柄を付けた装飾物〉に用いられたことで知られる。

 永禄3年5月19日昼頃、今川義元桶狭間の戦いで戦死。織田方の武将の水野信元は、甥の松平元康〈徳川家康〉のもとへ、浅井道忠を使者として遣わした。同日夕方、道忠は、元康が守っていた大高城に到着し、今川義元戦死の報を伝えた。織田勢が来襲する前に退却するようとの勧めに対し、元康はいったん物見を出して桶狭間敗戦を確認した。同日夜半に退城。岡崎城内には今川の残兵がいたため、これを避けて翌20日菩提寺大樹寺に入った。ここまでは、各文献に記されているものであるが、家康の馬印となった由来については2説ある

 ひとつ目の説は大樹寺で代々言い伝えられているもの。言い伝えによれば、元康は敵の追撃をかわしながら、大樹寺に到着した。前途を悲観した元康は、大樹寺松平家の墓前で自害を試みるが、その時13代住職の登誉天室(とうよてんしつ)が「厭離穢土 欣求浄土」と説き、切腹を思いとどまらせたと言われる。この言葉は「戦国の世は、誰もが自己の欲望のために戦いをしているから、国土が穢れきっている。その穢土を厭(いと)い離れ、永遠に平和な浄土をねがい求めるならば、必ず仏の加護を得て事を成す」という意味を指す。

 もうひとつの説は、江戸時代の故事や旧例を紹介した『柳営秘艦(りゅうえいひかん)』によるもの。同書によれば、家康が三河国を治めていた永禄5年から同7年にかけて、一向一揆が苛烈を極めた際に大樹寺の住職だった登誉は家康に味方し、家康から御旗を賜ると自筆で「厭離穢土 欣求浄土」と記して、門徒たちはその御旗を先頭に一向衆に攻め入り勝利を得たとされる。御旗の「厭離穢土 欣求浄土」は「生を軽んじ、死を幸いにする」という身構えを示したもので、これは一向一揆側が自分たちの鎧に「進是極楽退是無間地獄〈前進すれば極楽、退却すれば無間地獄〉」と記したことを聞いて、住職がこの文言を書いて死を奨め、それ以来この旗は吉例とされ、御当家の御宝蔵にある、とされている。

 私は過日岡崎の大樹寺を訪ね、厭離穢土 欣求浄土を目の当たりにしてきた。

 

第574話 大高城と対峙した丸根砦と鷲津砦

序文・桶狭間の戦いの前哨戦

                               堀口尚次

 

 大高(おおだか)城は、尾張国知多郡大高村〈現在の名古屋市緑区大高町〉にあった日本の城。桶狭間の戦いの前哨戦として、当時今川義元の配下であった松平元康〈後の徳川家康〉が「兵糧入れ」をおこなったことで名高い。現在は国の史跡に指定され、公園として整備されている。天文17年、今川義元の命で野々山政兼がこの城を攻めたが、落とすことができず政兼は戦死する。しかし信秀の死後、息子の織田信長から離反した鳴海(なるみ)城主の山口教継(のりつぐ)の調略で、大高城は沓掛(くつかけ)城〈現・豊明市名古屋市に隣接〉とともに今川方の手に落ちる。この脅威に対して信長は「丸根砦」と「鷲津(わしづ)」を築き、大高城に圧力を加える。永禄2年、朝比奈輝勝が義元の命をうけ大高城の守りに入る。翌永禄3年には、大高城の包囲を破りそのまま鵜殿長輝が守備についた5月18日夜には、大高城に松平元康が兵糧を届け、長照に代わり元康が城の守備についた。やがて信長の攻撃による義元の死〈桶狭間の戦い〉を確認した元康は岡崎城に引き下がったため、大高城は再び織田家の領土となった。

 丸根砦は、永禄2年、織田信長今川義元との領土争いの前線として鷲津砦や善照寺砦〈鳴海城と対峙〉とともに整備した。場所は、鷲津砦の東南400メートル、大高城からは東に約800メートルに位置し、鳴海から延びた丘陵の先端に築かれ、東西36メートル、南北28メートルの砦の周囲を、幅3.6メートルの外堀が囲んでいる。永禄3年5月19日、桶狭間の戦いの前哨戦が行われ、佐久間重盛を将とする織田軍が立てこもったが、松平元康率いる今川軍に敗れ全滅したといわれている。その後、三河で独立した徳川家と織田家が同盟関係になったため存在意義を失い、そのまま放棄された。

 鷲津砦は、永禄2年に織田信長によって築かれ、翌永禄3年には桶狭間の戦いの前哨戦が本砦を巡って行われている。大高町のうち、字鷲津山の丘陵がその故地とされ、昭和13年12月14日に大高城跡が国の史跡に指定された際、丸根砦跡と共に約1.455ヘクタールの範囲が「附(つけたり)〈文化財〉」として指定されているが、正確な所在地ははっきりしていない。

 上記の三カ所は、筆者の自宅から近いので過日徒歩にて現場確認に出かけた。それぞれ小高い丘の上にあり、ひと時の間だが、戦国時代の息吹が感じれた。



 

第573話 天誅組と刈谷藩

序文・勤皇と佐幕の狭間で

                               堀口尚次

 

 天誅(てんちゅう)組は、幕末に公卿・中山忠光を主将に志士達で構成された尊皇攘夷派の武装集団。その活動は文久3年8月17日の大和国五條代官所討ち入り〈挙兵〉から、幕府の追討を受け転戦してのち、同年9月24日~27日大和国東吉野村で多くの隊士が戦死して壊滅するまでの約40日である=天誅組の変

 松本奎堂(けいどう)は、幕末の志士。通称謙三郎、名は孟成、衡。字は士権。奎堂は号。別の号に嬬川、洞仏子がある。三河国刈谷藩士の子に生まれ、江戸の昌平坂学問書で学び俊才として知られた。強い尊王の志を持ち脱藩して私塾を開き尊攘派志士と交わった。孝明天皇大和行幸の先駆けたるべき天誅組を結成して大和国で挙兵吉村寅太郎〈土佐脱藩〉、藤本鉄石〈岡山脱藩〉とともに三総裁の一人となった。だが、八月十八日の政変で大和行幸は中止となり、孤立した天誅組幕府軍の攻撃を受けて敗退し、松本も戦死した。

 宍戸弥四郎は幕末の志士。諱は昌明、号は道一軒。天保4年、刈谷藩士宍戸弥助昌寿の六男として刈谷に生まれる。天誅組三総裁の一人松本奎堂とは竹馬の友である。この二人は譜代藩出身の勤皇志士という点で異色の経歴である

 江戸在番のおり、窪田清音の門人として山鹿流兵法を学ぶ。生来豪放磊落(ごうほうらいらく)で、顔は疱瘡の跡が残るあばた面であったが笑うと愛嬌があり、皆から好かれる性格であった。また小柄であったが、極めて頑強な身体と脚力を持っていた。文久3年、天誅組終焉に際して、主将・中山忠光らの本隊を逃すためにおとりの決死隊の一員となり、那須信吾らとともに東吉野村鷲家口で彦根藩の軍勢の中に斬り込んだ。非常な奮戦をみせ、中山忠光の脱出を成功させたが、戦闘中に鷲家川の急流に転落。再び岩壁をよじ登りはじめたところを彦根藩銃撃隊の一斉射撃を浴び戦死した。年31。墓所刈谷の松秀寺。胴衣の中には埋葬代としたためて、肌付き金小判十両が縫い付けてあった。幕末の志士の中でも出色の武士道を体現した最期であった。明治31年従四位を追贈された。

 私は過日、現在の愛知県刈谷市に点在する史跡を訪ねた。尊皇攘夷の志高く天誅組に散った命だったが、勤皇の信念を貫いた生き方を偲んだ。幕末の刈谷藩では、倒幕か佐幕か藩論は統一せず、家老三人が惨殺されるなど混乱をきわめていた。