ホリショウのあれこれ文筆庫

歴史その他、気になった案件を綴ってみました。

第586話 清水次郎長親分

序文・仏に官軍も賊軍もない

                               堀口尚次

 

 清水次郎長(しみずのじろちょう)、文政3年 - 明治26年は、幕末・明治の侠客、博徒、実業家。本名、山本長五郎。米問屋山本次郎八の養子。養家没落に伴い博徒となり、やくざ仲間で名をあげて清水に縄張りをもち、次郎長伯山と異名をとった三代目神田伯山の講談から広まり、広沢虎造浪曲〈ラジオ放送、レコード〉、その映画化で「海道一の親分」として取り上げられ人気を博する。大政、小政、森の石松など、「清水二十八人衆」という屈強な子分がいたとされる。

 戊辰戦争の際に修理で立ち寄った清水港に逆賊船としてそのまま放置されていた咸臨丸〈榎本武揚の率いる旧幕府艦隊の旗艦〉の中から、新政府軍に殺された乗組員の遺体を小舟を出して収容し丁重に葬ったことから、次郎長のこの義侠心に深く感動した幕臣山岡鉄舟と知り合い、旧幕臣救済のため、維新後は富士の裾野の開墾に乗り出し、社会事業家としても活躍した

 旧幕府海軍副総裁の榎本武揚に率いられて品川沖から脱走した艦隊のうち、咸臨丸は暴風雨により房州沖で破船し、修理のため清水湊に停泊したところを新政府海軍に発見・攻撃され、船に残っていた幕府軍の全員が交戦によって死亡した〈咸臨丸事件〉。戦いの後、戦死した乗組員の遺体は明治新政府咎めを恐れて誰も処理しようとする者がなく、清水湾内に漂い、腐敗するまま放置された。これを見かねた次郎長は舟を出して遺体を収容し、向島の砂浜に埋葬した。新政府軍はこの収容作業を咎めたが、次郎長は「死ねばみな仏にござる。仏に官軍も賊軍もない」と突っぱね、翌年には「壮士墓」を建立した

 博打を止めた次郎長は、清水港の発展のためには茶の販路を拡大するのが重要であると着目。蒸気船が入港できるように清水の外港を整備すべしと訴え、また自分でも横浜との定期航路線を営業する「静隆社」を設立した。この他にも県令・大迫貞清の奨めによって静岡の刑務所にいた囚徒(しゅうと)を督励(とくれい)して現在の富士市大渕の開墾に携わったり、私塾の英語教育を熱心に後援したという口碑(こうひ)がある。

 「旅行けば~駿河の道に茶の香り~」で始まる浪曲清水次郎長伝は、あまりにも有名。元浪曲師で俳優コメディアンだった玉川良一の声が、懐かしく聞こえてきそうだ。

 

第585話 やん衆

序文・ニシン漁の季節労働者

                               堀口尚次

 

 テレビのBS番組で、高倉健の「網走番外地・さいはての流れ者」を観た。その中で聞きなれない言葉があった。調べてみると漁師のことを「やん衆〈やんしゅ〉」と呼称していることがわかった。北海道でのニシン漁の季節労働者をこう呼ぶようだ。「ヤン」の語は、 アイヌ語 で 北海道島 を意味する「ヤウン・モシリ」に由来するとも、網曳(あび)き漁を意味する「ヤーシ」に由来する 。

 季節労働とは、季節的な要因の影響をうける産業従事者が、本来の産業に従事することができない期間に収入を得るためにする労働である。日本では冬季に積雪を迎える地域において、積雪などで事業ができないために就労する労働〈出稼ぎ〉のことを示す。また、これらの要因から就労する者を季節労働者季節労働者を雇用することを季節雇用といい、季節雇用とは逆に1年を通した雇用を通年雇用という。

 1年のうちある季節にのみ操業し、別のある季節には操業ができないような産業を季節性産業という。亜寒帯や寒帯の地域では冬季に低温が続き、降雪や積雪があることにより、土木・建築関係業務や農業など第一次産業の多くが事業を行うことができない。これらが典型的な季節性産業である。他に観光業にも季節性がある。こうした普段季節性産業に従事する者は、季節的な要因から一年を通じて産業に従事できない期間があり、収入を得るために季節労働を行う。

 明治時代から昭和初期には「季節労働」「出稼」の表記もみえるが、近年の日本の公文書では、「出かせぎ」を用いている。近代以降、多くの日系人中南米に移民し、その子孫が後に経済発展した日本へ出稼ぎに向かったことから、中南米でも「デカセギ」と表現されることがある。

 日本国内における出稼ぎは、第二次世界大戦前は農村や山村などにおいて製炭などに従事する労働力を他村から受け入れることがあった。戦後の高度成長期〈1970年代まで〉に顕著となり、主に北海道・東北地方や北陸・信越地方などの寒冷地方の農民が、冬季などの農閑期に首都圏をはじめとする都市部の建設現場などに働き口を求めて出稼ぎに行くことが多かった。

 新潟県出身の田中角栄が首相になると、「出稼ぎをしなくても雪国で暮らせるようにしよう」と日本列島改造論を唱え、全国で公共事業が増えた。

※やん衆どすこほい祭り

第584話 「やじ」は議場の華?!

序文・「やじ」と「罵声」は違う

                               堀口尚次

 

 やじは、他人の言動に対して非難や冷やかしの言葉を浴びせかける行為、およびその発言である。動詞化させて「やじる」という言い回しも用いられる。議会、スポーツ試合、劇場公演など様々な場で発言の合間を縫うように瞬間的に発せられるが、内容や場の礼儀によってしばしば批判され問題とされる。行為者が一人であっても継続的に大声を出し続けることで他の人々が聞きに来たのに全く話している内容が聞こえないようなシュプレヒコールで周囲の視聴阻害するような場合は「やじ」とは言わずに罵声と呼ばれ、悪意のある妨害行為だとして強く非難される。威嚇を伴うものを罵声、そうではないものをやじだとする分類もある。

 ヤジをする際には程度の低い「雑音」や「騒音」ではなく、短く鋭いセンスのいい一言であることが求められている。

 言論を生業とする政治家ならではの絶妙なヤジに対する表現として、「議会の華」「議場の華」というような言葉がある。大正9年の第43回帝国議会で、原敬内閣の大蔵大臣高橋是清が海軍予算を説明中、「陸海軍共に難きを忍んで長期の計画と致し、陸軍は十年、海軍は八年の…」と言いかけるや、三木武吉が「だるまは九年!」とヤジを飛ばした。これは、高橋是清のあだ名である「だるま」に、「達磨(だるま)大師が、中国の少林寺で壁に向かって九年間座禅し、悟りを開いた」という面壁九年の故事をかけた、機知に富んだものだった。本会議の議場は爆笑に包まれ、高橋も演説を中断して、ひな壇にいた原敬を振り返り、苦笑いした。普段から謹厳なことで知られる加藤高明濱口雄幸までが、議席で笑い声をあげたという。

 丹羽文生拓殖大学海外事情研究所助教は程度の低い「雑音」「騒音」「怒声」「罵声」のような下品な野次ではなく、議場を一瞬でピリッとさせる「寸鉄(すんてつ)人(ひと)を刺す〈短く鋭いことばで人の急所をつく〉ようなセンスのいい野次」の例としてあげた上記の三木のようなのを期待していると述べている。

 

 

第583話 家康の伯父・水野信元

序文・織田と松平の狭間で

                               堀口尚次

 

 水野信元は、天文12年、父・忠政の死去を受け水野宗家の家督を継ぎ、尾張国知多郡東部および三河国碧海郡西部を領した。異母妹に於大の方がおり徳川家康の伯父にあたる

 父・忠政は松平氏とともに今川氏についていたが、信元が緒川水野の家督を継いでまもなく松平広忠に嫁いだ信元の妹の於大の方が離縁されていることから、家督を受け継いだ当初より尾張国織田氏への協力を明らかにしていたと考えられる。また、元々水野氏と松平氏の婚姻同盟自体が広忠の叔父で後見役でもあった松平信孝が推進したもので、天文12年に広忠が信孝を追放していることから、松平氏の外交方針に変化が生じた〈敵対する信孝に近い水野氏との関係を切った〉とする説もある。

 信元は、織田信秀三河侵攻に協力するとともに、自らは知多半島の征服に乗り出し、松平広忠に離縁された妹の於大の方を、阿久比久松俊勝に嫁がせる。永禄5年、信長と家康が清須同盟を結ぶ際に、その仲介役となり、信元は家康が三河を平定した後も家康の相談に乗るなど強い影響力を持っていた。

 天正3年12月、信長の武将・佐久間信盛の讒言(ざんげん)により竹田勝頼の武将の秋山信友との内通や兵糧を輸送した疑いで、信長の命を受けた甥家康によって三河大樹寺において殺害され、同時に養子の信政も養父とともに斬られた。 法名は信元院殿大英鑑光大居士。刺客役を命じられた平岩親吉は、信元を斬ったのち屍を抱き上げ「信元どのに私怨はないが、君命によりやむをえず刃を向け申した」と涙ながらに詫びたという。案内役をしていた久光俊勝は「かかる事とも知らずして、信元迎え来て打たせたりし事の無慙(むざん)さよ。世の人のかえり聞かん事も恥ずかしとて、徳川殿を深く怨み、仲違いこそしたりけれ」と述べて、出奔(しゅっぽん)してしまう。夫に出奔された妹の於大の方とその子供たちは、家康の下に引き取られた。兄を殺された於大の方は、石川数正を深く恨み、これが後の家康嫡男・松平信康とその母・築山殿粛清や石川数正の出奔の原因と考える人もいる。

 私は過日、信元の墓所愛知県刈谷市天王町の楞厳(りゅうごん)寺を訪ねた。家康を助け、於大の方の異母兄として政略結婚に奔走した元信の最期は、甥の家康に手をかけられるという無惨なものだったが、乱世とはいえこの世の無常を感じざるを得ない。家康としても信長の命令とはいえ忸怩(じくじ)たる想いは拭えなかっただろう。

 

第582話 御陵衛士と佐野七五三之助

序文・新選組えお袂を分かつ

                               堀口尚次

 

 御陵衛士(ごりょうえじ)は、孝明天皇の陵を守るための組織。高台寺党とも〈高台寺塔頭(たっちゅう)の月真院を屯所としたため〉。

 慶応3年に伊東甲子太郎が思想の違いから新選組を離脱、志し同じ者を新選組から引き抜いて結成した。一応の離脱理由は、泉涌(せんにゅう)寺塔頭戒光寺の長老である堪然の仲介によって孝明天皇の御陵守護の任を拝命した事と、それに伴い薩摩藩長州藩の動向を探るという事であった。最初は五条橋東詰の長円寺に屯所を構えた。

一和同心〈日本国が心をひとつにして和する〉・国内皆兵・大開国大強国を基本とし、公儀による朝廷〈公卿〉中心の政体づくりを目指す独自の政治活動を展開した。

 新選組とは佐幕と勤王倒幕で袂を分かつただけに、新選組の襲来を恐れていつも刀を抱いて寝たという。ただし、近年の研究では倒幕といっても緩やかなものであり、松平春嶽らの思想に近かったものとも考えられており、薩摩藩とは一定の距離を置いていたという説がある。

 尾張名古屋藩藩出身の新選組隊士・佐野七五三之助(しめのすけ)は、元治元年10月に新選組に入隊し、四番組に所属。慶応3年3月に伊東らが新選組を脱退し御陵衛士を結成した際は、密命を受けて新選組に残留。6月10日の新選組幕臣取立てに反対して御陵衛士に参加しようとするが、規定によって断られ、会津藩邸内にて切腹した。享年32。

 一説では、佐野は一旦蘇生し、検死にやってきた大石鍬次郎に斬りかかったといわれる。これは、一篇の古文書に書かれていたことが拡大したものとされている。また、切腹ではなく大石ら新選組よって惨殺されたともいわれ、佐野は大石に槍で腹を刺し抜かれたが、抜打ちで大石に手傷を負わせたといわれている。

 なお、佐野の懐中には辞世の句が所持してあり、「二張の弓引かましと 武士(もののふ)のただ一筋に思ひ切るなり」とされる。なお、第24代内閣総理大臣加藤高明は、甥(妹の子)にあたる。



第581話 そうせい候・毛利敬親

序文・聞く耳を持っていた藩主

                               堀口尚次

 

 毛利敬親(たかちか)は、江戸時代後期から明治時代初期の大名。毛利氏27代当主。長州藩13代藩主。幕末の混乱期にあって有能な家臣を登用し活躍させ、また若い才能を庇護(ひご)することで窮乏(きゅうぼう)していた長州藩を豊かにし、幕末の雄藩に引き揚げ、結果として明治維新を成し遂げるきっかけの一つとなった

 敬親が藩主に就任した頃、長州藩は財政難に苦しんでいた。敬親はそれをよく知っていたため、木綿服を着て質素な振る舞いを見せながらお国入りをしたため、民衆に感激されたという。

 藩政改革では人材育成に尽力し、家柄や年齢にこだわらずに幕末の長州藩から高杉晋作などの優秀な人材を輩出させた。11歳年下で下級武士の息子である吉田松陰の才を評価して重用し、自ら松陰の門下となったエピソードは、松陰の秀才ぶりと同時に敬親の人柄を示すものとしても語られることが多い。敬親は松陰を「儒者の講義はありきたりの言葉ばかりが多く眠気を催させるが、松陰の話を聞いていると自然に膝を乗り出すようになる」と言ったという。敬親の人柄は長州志士からも慕われており、彼らが維新後に敬親を顕彰して建てた石碑などが、旧長州藩内に多く現存する。

 家臣の意見に対して異議を唱えることがなく、常に「うん、そうせい」と返答していたため「そうせい侯」と呼ばれ、一部に政治的には賢明な藩主ではなかったとの評価もあり、幕末の四賢候にも数えられていない。「侯(こう)」は、諸侯、すなわち大名のこと。

 藩政は家臣任せだったが、重要段階では必ず自ら決断した。元治元年9月、藩の命運を賭けた会議が開かれた。このとき第一次長州征伐で幕府軍が長州に迫っており、藩内では侃侃(かんかん)諤(がく)々の論戦が行なわれた。昼頃、小姓が「食事が出来ました」と述べると、井上馨が「藩の運命、ひいては国家の運命がかかっている大事な会議に食事をしている時間などないはず。早く結論を出すべき」とさえぎった。午後7時になっても結論は出なかったが、家臣の意見はほぼ出尽くしていた。敬親はこのときになって初めて口を開き、「我が藩は幕府に帰順する。左様心得よ」と述べるとその場を後にしたという。

 こうして三家老を切腹させ恭順し、自らも10月には萩に謹慎した。

 

第580話 於大の方と椎の木屋敷

序文・政略結婚

                               堀口尚次

 

 水野氏は、戦国時代には三河国刈谷城主であり、徳川家康の母・於大の方〈伝通院〉の実家にあたり、桶狭間の戦い後に家康に仕えた。江戸時代には譜代大名の一つだった。しばしば幕府の老中を出し特に天保の改革水野忠邦が著名。

 水野忠政は、戦国時代の武将、戦国大名。水野家当主。緒川城〈現・知多郡東浦町〉および刈谷城〈現・愛知県刈谷市〉の城主。徳川家康の生母・於大の方伝通院は娘で、家康の外祖父にあたる。はじめ尾張国の緒川城を中心として知多半島北部をその支配下においたが、天文2年、三河国刈谷に新しく刈谷城を築いた。織田信秀〈信長の父〉の西三河進攻に協力しつつ、他方では岡崎城松平広忠〈家康の父〉、形原(かたはら)城主〈現・愛知県蒲郡市松平家広などに娘を嫁がせて、領土の保全を図った。

 於代の方の父・忠政は緒川からほど近い三河国にも所領を持っており、当時三河で勢力を振るっていた松平清康〈家康の祖父〉の求めに応じて於富の方〈忠政の正室〉を離縁して清康に嫁がせ、松平氏とさらに友好関係を深めるため、天文10年に於大を清康の跡を継いだ松平広忠に嫁がせた。天文11年、於大は広忠の長男・竹千代後の家康岡崎城で出産した

 忠政の死後、家督を継いだ於大の兄・信元が、天文13年に松平氏の主君・今川氏と絶縁して織田氏に従ったため、於大は今川氏との関係を慮った広忠により離縁された。実家・水野氏の三河国刈谷城に返され、「椎(しい)の木屋敷」で暮らしたとされている。

 「椎の木屋敷」は、江戸時代には禁足地扱いされ、屋敷の出入口に鍵が掛けられ人足により手入れされた。庶民は立ち入ることができなかった。かつて文字通りの屋敷建築物も存在し、敷地の中央部には数基の五輪塔があったとされる。於大は天文17年に阿久比の久松長家俊勝と再婚し、椎の木屋敷を離れて坂部城〈現・知多郡阿久比町〉に移った。

 「椎の木屋敷跡」は、平成9年に刈谷市指定文化財に指定した後、平成11年には市民に開放する史跡として整備した。於大の座像や東屋のある庭園であり、政略結婚の末に捨てられた恨みからか、あるいは置いていった我が子・家康を思ってか於大の目線は岡崎の方角に向けられている。私は過日ここを訪れ、於大の方を偲んだ。