ホリショウのあれこれ文筆庫

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第637話 書道の神・小野道風

序文・花札の一枚

                               堀口尚次

 

 小野道風(おののとうふう)は、平安時代前期から中期にかけての貴族・能書家。参議・小野篁(たかむら)の孫で、大宰大弐・小野葛絃(かずらお)の三男。官位は小四位下・内蔵(くらの)頭(かみ)。それまでの中国的な書風から脱皮して和洋書道の基礎を築いた人物と評されている。後に、藤原佐理藤原行成と合わせて「三跡」と称され、その書跡は野跡と呼ばれる。

 小野葛紘が尾張国春日井郡上条現在の愛知県春日井市松河戸に滞在中、里女を母に葛紘の三男として生まれたとされる。史実としては確認できない、あくまで伝承の類であるが、江戸時代の18世紀には既にこの説が広まっていた。

 能書としての道風の名声は生存当時から高く、当時の宮廷や貴族の間では「王 羲之(ぎし)〈中国の書家〉の再生」ともてはやされた。『源氏物語』では、道風の書を評して「今風で美しく目にまばゆく見える」と言っている。没後、その評価はますます高まり、『書道の神』として祀られるに至っている。

 空海筆の額字について「美福門は田広し、朱雀門は米雀門、大極殿は火極殿」と非難したという。これは、空海が筆力・筆勢を重んじたのに対して、道風は字形の整斉・調和を重要視したという書に対する姿勢の違いや、道風の書が天皇や貴族に愛好され、尊重していた自負によるものと想定される。

 道風が、自分の才能を悩んで、書道をあきらめかけていた時のことである。ある雨の日のこと、道風が散歩に出かけると柳に蛙が飛びつこうと、繰りかえし飛びはねている姿を見た。道風は「柳は離れたところにある。蛙は柳に飛びつけるわけがない」と思っていた。すると、たまたま吹いた風が柳をしならせ、蛙はうまく飛び移った。道風は「自分はこの蛙の努力をしていない」と目を覚まして、書道をやり直すきっかけを得たという。ただし、この逸話は史実かどうか不明で、広まったのは江戸時代中期の浄瑠璃小野道風青柳硯』からと見られる。その後、第二次世界大戦以前の日本の国定教科書にもこの逸話が載せられて多くの人に広まり、知名度は高かった。この逸話は多くの絵画の題材とされ、花札の札の一つである「柳に小野道風」の絵柄もこの逸話を題材としている