序文・司法の課題
堀口尚次
昭和41年に強盗殺人罪の容疑で逮捕・起訴され、公判で無罪を主張したが、昭和55年に死刑が確定し服役していた袴田巌さんの無罪が、令和6年10月9日に確定した。静岡地検が上訴権を放棄したのだ。静岡地裁は「捜査機関の捏造があった」と断定した上で無罪判決を言い渡した。
冤罪は過去から問題とされてきたが、無実の罪で約50年以上も投獄されたことは、問題どころか、多大なる人権侵害であり、法治国家が抱える大問題ではないか。
警察は捜査権を行使して犯人である蓋然性が高まり、証拠や取り調べにおける自白等を元に、容疑者を確定し、検察に送致する。しかし、この捜査の段階で、「証拠の捏造」や「自白の強要」があったのでは本末転倒であり、悪い言い方をすれば『犯人をでっち上げる』ことが出来てしまう。勿論今回検察としては裁判所の捏造認定に強い不満を示している。筋からいくと、上告してしかりなのだが、検事総長は「袴田さんの法的地位が不安定な状況に置かれている事を継続させるのは相当ではない」として控訴断念を表明した。
犯罪容疑者逮捕から裁判までの流れはこうだ。大変簡単に書くと『①警察が容疑者を逮捕する②検察が容疑者を裁判にかける③裁判所が有罪か無罪かを判断し刑を確定する』となるだろうか。①のところで、本来犯人でない人を逮捕してしまっても②の段階で本当に犯人であるかどうか再検討できる仕組みになっている。更に③で①②が犯人と断定しても、無罪判決が出せるといういわば三重の扉で、冤罪が起きないような仕組みが構築されているはずなのに、なぜ冤罪はなくならない。
しかし単純に考えて、なぜ警察は証拠を捏造してまで、無実の人に罪をきせようとしたのか合点がいかない。いい方に考えれば、被害者や遺族に対して、「一日も早く犯人を捕まえたい」という意識が高すぎて勇み足になってしまうのか。悪い方に考えるのは警察に対して大変失礼な文章になってしまうので、ここでは割愛しますが、警察は人命を守るという聖職であることへの矜持は忘れてはなるまい。
そして近代国家の民主主義が選択した警察権という名の代物が、それこそ伝家の宝刀ではなく、銘刀として輝き続けることを願って止まない。