序文・大久保利通の次男
堀口尚次
牧野伸顕(あきあき)〈文久元年昭和24年〉は、日本の政治家。位階は従一位。勲等は勲一等。爵位は伯爵。名は「シンケン」と音読みされることもある。幼名は伸熊(のぶくま)。以前の諱は是利(これとし)。大久保利通は父、吉田茂は娘婿、寬仁親王妃信子と麻生太郎は曾孫にあたる。
文久元年10月22日、薩摩国鹿児島城下加治屋町猫之薬師小路に薩摩藩士で「維新の三傑」の一人・大久保一蔵〈後の利通〉と妻・満寿子の次男として生まれた。生後間もなく父・利通の義理の従兄弟にあたる牧野吉之丞の養子となるが、慶応4年に吉之丞が戊辰戦争における北越戦争で戦死したため、名字が牧野のまま大久保家で育った。
明治4年、11歳にして父や兄とともに岩倉遣欧使節団に加わって渡米し、フィラデルフィアの中学を経て、明治7年に帰国し開成学校〈後の東京帝国大学〉文学部和漢文学科に入学する。明治13年、東京大学を中退して外務省に入省。ロンドンの日本大使館に赴任し、憲法調査のため渡欧していた伊藤博文の知遇を得る。
伊藤博文は、人の長所をみて決して短所を見なかった。牧野の対人姿勢は伊藤に学んだ。相手の話をよく聞き、自分の意見と異なっていても、頭ごなしに否定せず、再考させた。三浦梧楼は牧野を石橋を叩いて渡らない人と評した。内大臣時代秘書官長として仕えた木戸幸一も、牧野は「非常に頭が柔軟であった、若いわれわれが話せるような空気がある」と評している。牧野には「保守」と「進歩」のアンビバレントな両面性があり、有馬頼(より)寧(やす)の同和問題への取り組みを評価したり、大川周明や安岡正篤を尊王家として評価したりしている。牧野は、皇室を護持していくうえで社会の変動を敏感に察知し、かつ、柔軟に対応する能力を身に着けていた。
大正14年、内大臣に転じ、昭和10年まで在任した。牧野は常侍輔弼(ほひつ)という大任に加え、後継首相の選定にもあずかることになった。牧野は内大臣就任直後、同年4月9日伯爵に陞爵(しょうしゃく)する。宮相在任中の皇太子洋行、摂政設置、皇太子結婚などの任務挙行の功績による。牧野に対する天皇の信頼は厚く、15年後、多難な時期に退任の意向を聞いた昭和天皇が涙を流したという逸話がある。