序文・負ければ賊軍
堀口尚次
落ち武者狩りは、日本の戦国時代に百姓が自分の村の地域自衛の一環として、敗戦で支配権力が変わった時に敵方の逃亡武将〈落武者〉を探して略奪し、殺害した慣行である。武将の鎧や刀など装備を剥いで売ったり金品など得たりするためでもあり、「落ち武者襲撃慣行」ともよばれる。
室町時代初めにすでに原型が見られ、室町中期には京都周辺で僧兵の落人狩りが幕府の呼びかけでなされた。敗者を「法の外の人」とみる中世以来の習慣の存在と、村の問題は自分たちで解決する自力救済の考えに基づく成敗権と武力行使が根底にあり、特に戦国時代には慣行として許され、地域では惣村の力が強く慣行には手がつけられない面があり、広く展開し、豊臣秀吉の「惣無事令」から始まる身分固定・成敗権の否定を伴う一連の政策まで存続していた。
室町時代、没落したり後ろ盾がなくなった公家や武家は落人、落ち武者として扱われ、その地域や逃亡中の近隣町人に襲われた。また、失脚した武家の屋敷が略奪に遭った。さらに流罪となり流刑先に移動している罪人も落ち武者とみなされ、対象となった。
この後、永享6年、室町幕府第6代将軍足利義教の時代に、比叡山延暦寺の僧兵が日吉神社の神輿を担いでの強訴に及んだ際、幕府は幕府軍が守備しない京都周辺の伏見荘・山科荘・醍醐荘の荘園の村々に、都合のいい所で待ち伏せて「落人狩り」で討って装備を剥いでほしいと要請する。地の利がある村人が人の通りそうな山野に夜も昼も待ち伏せて馬や武具を渡せと襲い、抵抗すれば殺し、降参したら身ぐるみを剥いだ。地域のことになると動くが、それ以上のことには関わらないし軍の指揮にも入らないという原則が、すでに確立していた。この時の開始の様子は、荘内の寺の早鐘を鳴らし、半具足の軽装で約300人が集結したら集会で作戦を練り、戦闘名簿に名前を記入し、やがて周囲の村からやってきた人も村ごとに記入した。熟練した慣れた対応で、名簿を作るのも当時の武士の先陣作法ながらきちんとこなし、この時点で村の武力体制がほぼ機能していた。
特に、天正10年、山崎の戦い後に起きた、明智光秀の小栗栖または山科または醍醐での落ち武者狩りの百姓による鑓(やり)あるいは打ち殺しによる殺害が有名である。