ホリショウのあれこれ文筆庫

歴史その他、気になった案件を綴ってみました。

第1029話 平家の落人

序文・八つ墓村は違う

                               堀口尚次

 

 平家の落人(おちゅうど)とは、治承・寿永の乱〈源平合戦において敗北した結果、山間部などの僻地に隠遁した平家側の敗残兵などの生き残りのこと。平家の一門やその郎党、平家方の戦いに与した者が挙げられる。平家の落武者ともいうが、落人の中には武士に限らず公卿や女性や子供なども含まれたので、平家の落人というのが一般的である。こうした平家の落人が特定の地域に逃れたという伝承が残っており、俗に「平家の落人伝説」という。

 今日、日本各地において平家の落人伝説が伝承されている。源氏と平家とが雌雄を決した源平合戦〈一之谷の戦い、屋島の戦い壇ノ浦の戦いなど〉において平家方が敗退する過程で発生した平家方の落人・敗残兵が各地に潜んだことから様々な伝承が伝えられるようになった。平家の落人が潜んだ地域を平家谷、平家塚、平家の隠れ里、平家の落人の里などという。

 平家の落人伝承にある誤解としてよくあるのが、平家の落人の末裔が即ち平家一門の末裔であるという混同である。確かに平家一門が落ち延びたという伝承も少なくはないが、平家の落人という呼称が意味するものは「平家方に与して落ち延びた者」であり、平家の郎党の場合もあれば、平家方に味方した武士の場合もある。

 中には、創作や脚色された信憑性の薄い伝承や誤伝に基づく話もある。戦において落人が発生することは珍しくはなく、平家の場合も例外ではないが、該当する家系と姻戚関係となった間接的な血筋までも平家の落人を称する場合があり、口伝を基本とする平家の落人伝承が誤伝したり曖昧になりやすい側面もある。後に平家の残党が起こした三日平氏の乱やかつての平家方・城長茂(じょうながもち)の起こした謀叛などでも、平家の落人が存在した事自体は間違いないが、元々が逃亡、潜伏した者であるため、歴史学的に客観的な検証が可能なものは少ない。

 平家の落人は、山の奥深くや離れ島や孤島など、人口が少ないところや山間部や谷間など、人が寄りがたい所に里を築くとされた。食器や生活用品を洗ったりする時に川に誤って流してしまったり、山中に落としてしまったりして、外部の人間に気づかれることもある。ただし、気づくのはごく少数であり、平家の落人の隠れ里に辿り着くのも少数である。このため、平家の隠れ里が『隠れ里』として神秘的な存在にとられることも多い。

 

第1028話 パン祖・世直し大明神こと江川英龍

序文・西洋式のパンを焼いた幕臣

                               堀口尚次

 

 江川英龍(ひでたつ)〈享和元年-安政2年〉は、江戸時代後期の幕臣で伊豆韮山代官。通称の太郎左衛門、号の坦庵(たんあん)の呼び名で知られている。韮山では坦庵と書いて「たんなん」と読むことが多い。

 日本列島周辺に欧米の列強の船舶がしきりに出没するようになった時代において、洋学とりわけ近代的な海防の手法に強い関心を抱き、反射炉を築き、日本に西洋砲術を普及させた。地方の一代官であったが海防の建言を行い、勘定吟味役まで異例の昇進を重ね、幕閣入りを果たし、勘定奉行任命を目前に病死した。また兵糧として西洋式のパンを焼いたことから、現代では「パン祖」とも呼ばれる。

 国防上の観点から、パンの効用に日本で初めて着目して兵糧パン〈堅パンに近いものを焼いた人物である。日本のパン業界から「パン祖」と呼ばれており、江川家の地元伊豆の国市(くにし)では「パン祖のパン祭り」が例年開催されている。パンは最初、1543年に種子島に来たポルトガル船による鉄砲伝来と伴うもので、その後のキリスト教宣教師の布教活動とともにパン食の普及も始まり、織田信長が食べたという記述も残っているが、キリシタン弾圧〈禁教令〉や鎖国によってしばらく途絶えていた。

 英龍は屋敷近隣の金谷村の人を集め、日本で初めての西洋式軍隊を組織したとされる。今でも日本中で使われる「気をつけ」「右向け右」「回れ右」といった号令・掛け声は、その時に英龍が一般の者が使いやすいようにと親族に頼んで西洋の文献から日本語に訳させたものである。

 父・英毅は民治に力を尽くし、商品作物の栽培による増収などを目指した人物として知られ、英龍も施政の公正に勤め、二宮尊徳を招聘して農地の改良などを行った。英龍は自身や自身の役所、支配地の村々まで積極的な倹約を実施した。一方で、殖産のための貸付、飢饉の際の施しは積極的に行い領民の信頼を得た。また、嘉永年間に種痘の技術が伝わると、領民への接種を積極的に推進した。こうした領民を思った英龍の姿勢に領民は彼を「世直し江川大明神」と呼んで敬愛した。現在に至っても彼の地元・韮山では江川へ強い愛着を持っている事が伺われる。 

 

第1027話 月代と丁髷

序文・兜との関係

                               堀口尚次

 

 月代(さかやき)とは、江戸時代以前の日本にみられた成人男性髪型において、前頭部から頭頂部にかけての、頭髪を剃りあげた抜き上げた部分を指す。さかやきを剃った髪型のことは、野郎頭や半髪頭と表現される。

 兜を被った際に頭が蒸れるのを抑えるために始まった風習とされる。平時は側頭部および後頭部の髪をまとめて髷を結った。なお、現代日本において時代劇等で一般男性の髷としてなじみとなっているのは銀杏髷(ぎんなんまげ)であり、髷が小さい丁髷(ちょんまげ)ではない。さかやきをそり、髷を解いた髪型を「童髪(わらわがみ)」といい、「大童(おおわらわ)」の語源となっている。また、兜を被った際に頭が蒸れるのを抑える目的は「弁髪〈東アジアの男性の髪型〉」に共通している。

サカヤキ」の語源、また「月代」の用字の起源は諸説ある。一説にさかやきはサカイキの転訛であるという。戦場で兜をかぶると気が逆さに上るから、そのイキを抜くためであるという説が広く認められている。

 『太平記』巻5に、「片岡八郎矢田彦七あらあつやと頭巾を脱いで、側に指し置く。実に山伏ならねば、さかやきの跡隠れなし」とあり、絵巻物などと照らし合わせると、鎌倉時代室町時代さかやきが行われていたと分かる。当時は、兜による頭の蒸れ対策として戦の間だけ行われた習慣であり、日常に戻った時は総髪となった。戦国時代になると、戦が続くなどしてさかやきが日常においても行われるようになった。沖縄の古謡集『おもろさうし』のうち、1609年の島津氏による琉球出兵を歌ったものでは、薩摩兵を「まへぼじ〈前坊主〉」と揶揄しており、さかやきを作っていた事がわかる。

 江戸時代になると、一定の風俗となった。公卿を除く、一般すなわち武家、平民の間で行われ、元服の時はさかやきを剃ることが慣例となった。蟄居や閉門の処分期間中や病気で床についている間はさかやきを剃らないものとされた。外出時もさかやきでない者は、公卿、浪人、山伏、学者、医師、人相見、物乞いなどであった。さかやきの形は任客、中間、小者は盆の窪まであり、四角のさかやきは相撲から起こり、その広いものを唐犬額(とうけんびたい)といった。江戸時代末期にはさかやきは狭小になり、これを講武所風(こうぶしょふう)といった。また若さをアピールする一種のファッションとして、さかやきやもみあげを藍で蒼く見せるという風習も流行した。さかやきの風習は、明治の断髪令まで行われた。

 

第1026話 改易・お家取り潰しの福島正則

序文・豊臣秀吉の従兄弟

                               堀口尚次

 

 福島正則は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての日本の武将で、大名。賤ケ岳の七本槍、七将の一人としても知られている。安芸国広島藩主、後に信濃高井野藩の初代藩主。

 永禄4年、市松〈幼名〉は尾張国海東郡二ツ寺村〈現・愛知県あま市二ツ寺屋敷〉で桶屋を営む福島正信の長男として生まれたという。しかし、父・正信は義父であったともいわれている。母は、秀吉のちの豊臣秀吉の母のちの大政所〉の妹秀吉の叔母〉にあたる人物である。少年に成長すると、母を通じた縁で秀吉の小姓になる。

 元和5年、家康死後まもない頃、台風による水害で破壊された広島城の本丸・二の丸・三の丸及び石垣等を無断修繕したことが武家諸法度違反に問われる正則はその2ヶ月前から届けを出していたが、先年にも一国一城令発布後にもかかわらず新規に築城を行ったとして、毛利家から報告を受けた幕府より該当城の破却を命じられた後でもあり、幕府からは正式な許可が出ていなかった。

 福島側の言い分では、雨漏りする部分を止むを得ず修繕しただけという。江戸参勤中の正則が謝罪し、修繕した部分を破却するという条件で一旦は沙汰止みになったものの、求められた「本丸以外の修築分を破却」という条件に対し、正則は本丸の修築分のみ破却をおこない、二の丸・三の丸の修築分は据え置いた。これにより「破却が不十分である」と咎められる。また、人質として江戸に送るはずだった忠勝の出発を遅らせたこと、それに対して「万事親次第」と弁明を拒否するなどしたため、怒った将軍・徳川秀忠から、安芸・備後50万石は没収信濃国川中島郡中高井郡越後国魚沼郡の4万5,000石〈高井野藩〉に減転封の命令を受けることとなった。

 移封後、正則は嫡男・忠勝に家督を譲り、隠居した。出家して高斎と号した。元和6年、忠勝が早世したため、正則2万5,000石を幕府に返上した。寛永元年、正則は高井野〈長野県高山村〉で死去。享年64。幕府の検死役が到着する前に、家臣が正則の遺体を火葬したため残りの2万石も没収され福島家は取り潰された

 出生地の現在の愛知県あま市では英雄視されており、明治22年発足の正則村の由来にもなっている。現在合併により消滅・地名としても残っていない。

※筆者撮影

第1025話 関東庁と関東軍

序文・中国東北部関東州

                               堀口尚次

 

 関東庁は、関東州租借地の統治にあたっていた日本植民地民政機関大正8年に軍政機関であった関東都督府が廃止され、その陸軍部が関東軍司令部、民政部が関東庁へ改組されたのに始まる。満州国成立後の1934年に在満洲大使館の中に関東局が設置されたのに伴って廃止された。

 大正8年勅令94号「関東庁官制」により設置。関東都督府の軍事部門が「関東軍」として分離したことにより、民政部門をつかさどる機関として設けられた。本部は旅順。関東州の統治、南満州鉄道附属地の治安維持、南満州鉄道の業務への監督を行い、軍事的な権限は持っていなかった。設置当初、関東長官は総理大臣の監督を受ける〈渉外事項については外務大臣が監督する〉こととされたが、昭和4年の拓務省設置以降は拓務省の監督下に置かれた。昭和9年満州事変後の在満機構改革の中で関東庁は廃止となり、在満州国大使館関東局と関東州庁に再編された。

 関東軍は、大日本帝国陸軍総軍の一つ昭和17年10月1日以前は軍の一つ〉。関東都督府〈関東州南満州鉄道付属地の行政府守備隊が前身。司令部は当初旅順に置かれた。満州事変を引き起こして満州国を建国し、日満議定書後は満洲国の首都である新京〈現・中華人民共和国吉林省長春市〉に移転した。

 現地の佐官参謀陣が自らの判断で、政府の不拡大方針を無視して柳条湖事件張作霖爆殺事件などの謀略事件を強行し、その後の支那事変太平洋戦争に至る日本の政治外交過程を大きく揺るがす要因となった

 なお、満洲事変参謀本部陸軍省といった当時の陸軍中央の国防政策からも逸脱していた上、陸軍大元帥統帥権を持つ天皇の許可なしに軍事行動をする事は明確な軍規違反であったが、首謀者達は処罰されるどころか出世した。以降、関東軍は規模を拡大させ、昭和16年の最大規模時には総員74万人を数えるほどになり、昭和20年8月9日のソ連侵攻で壊滅するまで、満洲国の実質的な統治を行った。

 「関東軍」の名称は、警備地であった中国東北部の関東州に由来するもので〈関東とは、万里の長城の東端とされた山海関の東側、つまり満州全体を意味する〉、日本の関東地方とは無関係である。

 

第1024話 鷽替え

序文・天神様の風習

                               堀口尚次

 

 鷽替(うそか)えとは、主に菅原道真祭神とする神社〈天満宮において行われる特殊神事である。〈ウソ〉嘘〈うそに通じることから、前年にあった災厄・凶事などを嘘とし、本年は吉となることを祈念して行われる

 元来は大宰府天満宮で古来から行われてきた正月七日夜に鬼すべとともに吉兆を招く神事であった。それが現在では全国へ広がり亀戸天神社大阪天満宮、道明寺天満宮など、九州では住敏神社等でも行われる。木彫りのの木像である木うそを「替えましょ、替えましょ」の掛け声とともに交換しあうことで有名であるが、亀戸天神社では前年神社から受けた削り掛けの木うそを新しいものと交換する。多くの神社では正月に行われるが斎行日は異なる。

 太宰府天満宮では1月7日の酉の刻、亀戸天神社では1月24日、25日に斎行される。なお、道真が仁和2年から讃岐守を勤めた滝宮天満宮では4月24日に斎行される。

 太宰府天満宮で正月七日酉刻に行われる鷽替神事の伝承では、当地にて菅原道真が蜂に襲われた時に、ウソの大群が飛んできて助かったという。各地の天満宮でも同じような伝承が最も多い。そのため、木うそが授与されることが多いが、天満宮でなくても授与する神社〈福岡市住吉神社など〉もある。近年は木うそのほかにも張り子や土人形、陶器、磁器のウソもある。

 また、鷽替えは元来大宰府天満宮で鬼すべと共に行われる吉兆神事が発祥とされ、京都市上京区北野天満宮天神信仰の中心の一つであるが、鷽替え神事は無く、木うそも授与しない。しかし北野天満宮から勧請された天満宮でも鷽替え神事を斎行している神社は多い。主に初天神の25日前後に斎行される。三天神の一つとされる、山口県防府市防府天満宮でも古来記録では鷽替神事を斎行していたが、廃れてしまい現在では行っていない。 

 因みにウソは、スズメ目アトリ科ウソ属に分類される鳥類の一種。和名の由来は口笛を意味する古語「うそ」から来ており、ヒーホーと口笛のような鳴き声を発することから名付けられた。その細く、悲しげな調子を帯びた鳴き声は古くから愛され、江戸時代には「弾琴鳥」や「うそひめ」と呼ばれることもあった。

 

第1023話 マフィア

序文・ゴットファーザー

                               堀口尚次

 

 マフィアは、イタリアのシチリア島を起源とする組織犯罪集団である。19世紀から恐喝や暴力により勢力を拡大し、1992年段階では186グループ〈マフィアのグループは「ファミリー」と呼ばれる〉・約4,000人の構成員がいる。

 マフィアの一部は19世紀末より20世紀初頭にアメリカ合衆国に移民し、大都市部を中心に勢力を拡大した。1992年段階でアメリカ全土には27ファミリー・2,000人の構成員がいるが、現在マフィアの多くは衰退し、シカゴを拠点とするシカゴ・アウトフィットのみが勢力を維持しているとみられている。

 組織犯罪集団の代名詞的存在であるため、他民族もしくは他地域の犯罪組織も「マフィア」と呼ばれることがある。また、市場における匿名の投機筋を「金融マフィア」などと呼ぶなど比喩的に使用される場合もある。またマスメディアにおいて、メンバーシップが限定的で排他的かつ強力な団結力を持つ組織を「〜マフィア」と形容することがある。軍隊においては軍政などにおける特定の派閥を「〜マフィア」と通称することがある。親子分・兄弟分の契りを交わす儀式があるなど、風習もよく似た類似組織が日本の暴力団・ヤクザである

 マフィアの語源には諸説あり定説は無い。アラビア語採石場を意味するマーハ、空威張りを意味するマヒアスから来たというものである。シチリアは9世紀から11世紀までイスラム教徒のアラビア人が支配しており、支配に反抗した者や犯罪者がしばしば採石場に逃げ込んだという。またイタリアの国語辞典には“シチリア方言で「乱暴な態度」から”と記述がある。

 元々、マフィアという言葉は肯定的な意味で使用されていた言葉であり、「美しさ、優しさ、優雅さ、完璧さ、そして名誉ある男、勇気ある人、大胆な人」という意味で使用されていた。この意味での言葉が初めて公文書に使われたのは1656年パレルモでの異端尋問においてであり、異端とされた者のリストの中にこの言葉が使用されている。

 現在のような秘密結社、犯罪組織を意味する言葉として初めて使われたのは19世紀以降からであり、現代の意味でこの言葉が広く知られるようになったのは1862年に制作された喜劇「ヴィカーリア刑務所のマフィア構成員たち」がパレルモのサンタンナ劇場で上演され大ヒットしイタリア各地で巡演されてからである。