ホリショウのあれこれ文筆庫

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第1156話 「鵯越の逆落とし」と鷲尾三郎義久

序文・奇襲戦法の道案内役

                               堀口尚次

 

 『平家物語』によれば、義経は馬2頭を落として、1頭は足を挫いて倒れるが、もう1頭は無事に駆け下った。義経は「心して下れば馬を損なうことはない。皆の者、駆け下りよ」と言うや先陣となって駆け下った。坂東武者たちもこれに続いて駆け下る。二町〈218メートル〉ほど駆け下ると、屏風が立ったような険しい岩場となっており、さすがの坂東武者も怖気づくが、三浦氏の一族佐原義連(よしつら)が「三浦では常日頃、ここよりも険しい所を駆け落ちているわ」と言うや、真っ先に駆け下った。義経らもこれに続く。大力の畠山重忠は馬を損ねてはならじと馬を背負って岩場を駆け下った。なお『吾妻鏡』によれば、畠山重忠は範頼の大手軍に属しており、義経の軍勢にはいない。

 崖を駆け下った義経らは平家の陣に突入する。予想もしなかった方向から攻撃を受けた一ノ谷の陣営は大混乱となり、義経はそれに乗じて方々に火をかけた。平家の兵たちは我先にと海へ逃げ出した。

 鎌倉幕府編纂の『吾妻鏡』では、この戦いについて「源九郎〈義経〉は勇士七十余騎を率いて、一ノ谷の後山〈鵯越(ひよどりごえ)と号す〉に到着」「九郎が三浦十郎義連〈佐原義連〉ら勇士を率いて、鵯越この山は鹿の外は通れぬ険阻(けんそ)である〉において攻防の間に、〈平家は〉商量を失い敗走、或いは一ノ谷の舘を馬で出ようと策し、或いは船で四国の地へ向かおうとした」とあり、義経が70騎を率い、険阻な一の谷の背後鵯越から攻撃を仕掛けたことが分る。これが逆落しを意味すると解釈されている

 鷲尾義久は、平安時代末期の武士。源義経の郎党。通称は三郎。諱は経春とも伝わる。『平家物語』の「老馬」の段に登場する。元は播磨山中にて猟師をしていたという。寿永3年、三草山の戦いで平資盛軍を破った義経軍は、山中を更に進軍していくにあたって、土地鑑のある者としてこの義久を召し出し、道案内役として使ったという。義経一行が鵯越にたどりつき、一ノ谷の戦いにおいて大勝を収めることができたのは、彼のこの働きによるところが大きく、「義久」という名はその褒賞として義経が自らの一字を与えてつけたものだと言われている。

 以降、忠実な義経の郎党として付き従い、最後は衣川館(ころもがわのたて)にて主君と命運をともにしたという。