ホリショウのあれこれ文筆庫

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第1183話 梶原景時の讒言

序文・頼朝と義経の狭間

                               堀口尚次

 

 梶原景時は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将。鎌倉幕府の有力御家人石橋山の戦い源頼朝を救ったことから重用され侍所所司(さむらいどころしょし)、厩別当(うまやのべっとう)となる。当時の東国武士には珍しく教養があり、和歌を好み、「武家百人一首」にも選出されている。源義経と対立した人物として知られるが、頼朝の信任厚く、都の貴族からは「一ノ郎党」「鎌倉ノ本体ノ武士」と称されていた。

 義経長門国彦島に孤立した平氏を滅ぼすべく水軍を編成して壇ノ浦の戦いを挑んだ。『平家物語』によれば、軍議で景時は先陣を希望したところ、義経はこれを退けて自らが先陣に立つと言った。心外に思った景時は「総大将が先陣なぞ聞いたことがない。将の器ではない」と愚弄し、義経の郎党と景時父子が斬りあう寸前になった。合戦は源氏の勝利に終わり、平氏は滅亡した。

 『平家物語』にある「逆櫓(さかろ)論争」や「先陣争い」の史実性については疑問とする見方もあるが、『吾妻鏡』にある合戦の報告で景時は「判官殿義経は功に誇って傲慢であり、武士たちは薄氷を踏む思いであります。そば近く仕える私が判官殿をお諌めしても怒りを受けるばかりで、刑罰を受けかねません。合戦が終わった今はただ関東へ帰りたいと願います」〈大意〉と述べており、義経景時に対立があったことは確かである。

 この報告がいわゆる「梶原景時の讒言(ざんげん)」と呼ばれるが、『吾妻鏡』は「義経の独断とわがまま勝手に恨みに思っていたのは景時だけではない」とこれに付記している。後に義経後白河法皇から頼朝討伐の院宣を得て挙兵した時も、平氏討伐戦で義経が華々しい戦勝をしていたにもかかわらずこれに応じる武士はわずかしかいなかった。また、「梶原景時の讒言」に対し、景時以外の義経に同行していた将たちが、頼朝に対して義経を弁護していない〈少なくとも、弁護していると信用できる史料はない〉ことも事実である。

 かつては伝統的な判官贔屓(ほうがんびいき)の影響で、源義経と対立した敵役として、讒言によって人を陥れる人物というイメージを持たれていた。しかし近年は、教養があり、主君に忠実で事務能力に優れた官僚的人物との評価が定着しつつある。