序文・保科家への恩義と徳川家への忠義
堀口尚次
保科正之は第2代将軍徳川秀忠の落胤で、第3代将軍家光の異母弟である。正之の出生は秀忠側近の老中・土井利勝や、数名のみしか知らぬことであり、異母兄にあたる家光さえも当初は知らなかった。元和3年、見性院の縁で旧武田家臣の信濃国高遠藩主・保科正光が預かり、正光の子として養育される。
家光の信頼を受けて幕政に重きをなした。家光没後、11歳の嫡子家綱が第4代将軍になると、正之は叔父として後見を務めた。正之は大老として江戸で幕政を統括したため、会津に帰国したのは正保4年と晩年の数年間のみであった。この間、正之は幕政において明暦の大火における対策で敏腕を発揮しているが、藩政でも手腕を発揮して正之の時代に会津藩の藩政はほぼ確立された。なお、正之は山形藩主時代に保科家の家宝類を保科家の血を引く保科正貞に譲って、徳川一門として認められており、正之は幕府より葵紋の使用と松平姓を称することを許されていたが、正之は保科家の恩義と家臣に対する心情を思いやって辞退した。
会津藩は日本初となる老齢年金制度を創設した藩であった。開始されたのは寛文3年で保科正之の時代であり、正之は藩内の90歳以上の老人に対して金銭ではなく米で1日5合、年間では約1石8斗、米俵で4俵半を支給した。当時の会津藩で90歳以上の高齢者は町人で男子は4人、女子は7人、村方では140人と合計すると155人以上おり決して少ない負担ではない。また正之は支給すべき者が高齢なため、歩行できたりする健常者は自ら支給を受け取りに来るよう命じたが、健常者でない者は子や孫が受け取りに来ることも認めていた。
寛文8年、会津藩初代藩主・保科正之は、会津藩の憲法ともいえる家訓(かきん)〈会津藩ではカクンではなくカキンえお読む〉を制定した。「会津風土記」を書いた家老・友松氏興が建言し、正之と朱子学者・山崎闇斎と共同で作成したのではないかといわれている。
この家訓は以後200年にわたり、会津藩の精神的支柱として存在した。正之は兄弟である3代将軍・徳川家光に引き立てられ大大名に出世、徳川家に恩義を感じていた。家光が亡くなると、まだ幼かった4代将軍・徳川家綱の後見役を務め幕府を支える。
家訓の第1条は、「徳川家に忠勤、忠義を尽くさなければならない」という正之の気持ちが書かれていて、将軍家へ後世の子孫まで絶対的な忠誠を誓わせている。その後、9代藩主・松平容保は、越前の松平春嶽や一橋慶喜らに、京都守護職への就任を要請される。第1条の内容を引き出された容保は要請を承諾するしかなく、後に戊辰戦争の悲劇へとつながったといわれている。
全15カ条からなるこの家訓は、会津藩政の基本的な方向を示すものとして制定され、幕府にその忠誠を尽くすその姿は、武士社会の鑑として、全国にその名を轟かせた。時代によって異なるが、家訓は、1月11日の御用始、8月1日の八朔、12月18日の御用納めの年3回、城中において家臣一同で拝聴する慣わしとなっていた。以下家訓。
一、大君の儀、一心大切に忠勤を存すべく、列国の例を以て自ら処るべからず。若し二心を懐かば、則ち我が子孫に非ず、面々決して従うべからず。
一、武備は怠るべからず。士を選ぶを本とすべし。 上下の分、乱るべからず。
一、兄を敬い、弟を愛すべし。
一、婦人女子の言、一切聞くべからず。
一、主を重んじ、法を畏るべし。
一、家中は風義を励むべし。
一、賄を行い、媚を求むべからず。
一、面々、依怙贔屓すべからず。
一、士を選ぶに便辟便侫の者を取るべからず。
一、賞罰は家老の外、これに参加すべからず。若し出位の者あらば、これを厳格にすべし。
一、近侍の者をして、人の善悪を告げしむべからず。
一、政事は利害を以って道理を枉ぐべからず。僉議は私意を挟みて人言を拒むべらず。思う所を蔵せず、以てこれを争そうべし。甚だ相争うと雖も我意を介すべからず。
一、法を犯す者は宥すべからず。
一、社倉は民のためにこれを置き、永く利せんとするものなり。 歳餓うれば則ち発出してこれを済うべし。これを他用すべからず。
一、若し志を失い、遊楽を好み、馳奢を致し、土民をしてその所を失わしめば、則ち何の面目あって封印を戴き、土地を領せんや。必ず上表して蟄居すべし。