序文・信長の姻戚
堀口尚次
丹羽長秀は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。織田氏の宿老であり、主君・織田信長に従い、天下統一事業に貢献した。朝廷より惟住(これずみ)の姓を賜ったので、惟住長秀ともいう。
天文4年9月20日、丹羽長政の次男として尾張国春日井郡児玉〈現在の名古屋市西区〉に生まれる。丹羽氏は元々斯波氏の家臣であった。天文19年より、長秀は織田信長に仕えた。
天正元年9月、長秀は近江佐和山領に加え若狭一国を与えられ、織田家臣で最初の国持大名となった。その後、家老の席順としては、筆頭格の佐久間信盛失脚後この位置に繰り上がった柴田勝家に続く二番家老の席次が与えられ、両名は織田家の双璧といわれた。
織田家中では「木綿藤吉、米五郎左、掛かれ柴田に、退き佐久間」という風評があった〈『翁草』〉。木綿〈羽柴秀吉〉は華美ではないが重宝であるのに対し、米五郎左は長秀を評したもので、非常に器用でどのような任務でもこなし、米のように、上にとっても下にとっても毎日の生活上欠くことのできない存在であるというような意味である。
天正3年7月、信長が家臣達への官位下賜と贈姓を上奏し、羽柴秀吉が筑前守、明智光秀が九州の名族である惟(これ)任(とう)の姓を与えられた。この際、長秀にも同じく九州の名門である惟住の姓が与えられた。しかし、長秀はこれを一度、「拙者は、生涯、五郎左のままで結構」と断っている。
長秀は方面軍司令の地位こそ得られなかったが、安土城の普請奉行などの畿内の行政の仕事をそつなくこなし、各方面の援軍として補給路の確保や現地の戦後処理において活躍をするなど行政と軍事両面で米五郎左の名に恥じない働きを続け、信長の信頼も変わらなかった。
丹羽家と織田家は縁戚関係にある。事実長秀は信長の兄・織田信広の娘である桂峯院〈信長の姪であり養女でもある〉を妻に迎え、嫡男の長重も信長の五女を娶っている。さらに、長秀は信長から「長」の字の偏諱を受け、親しい主従関係であった。2代に渡って信長の姻戚となった例は、他の家臣には一切無いところを見てもわかるように、長秀は信長から「長秀は友であり、兄弟である」と呼ばれるという逸話が残るほど、厚く信頼されていたことがうかがえる。