ホリショウのあれこれ文筆庫

歴史その他、気になった案件を綴ってみました。

第204話 レコードの豊かな音源

序文・アナログって好きです

                               堀口尚次

 

 通常人間が聴こえている生演奏は、40,000Hz(ヘルツ)までで、これに対してCDは、22,000Hzまでしか収録されていない。これは、人間に聞こえない範囲の周波数をカットしているためである。しかしレコードには、人間が聴こえないはずの、22,000Hz以上の周波数が録音されている。人間は通常、下は20Hz程度から、上は(個人差があるが)15,000Hzないし20,000Hz程度までの鼓膜振動を音として感じることができ、この周波数帯域を可聴域という。CDとレコードの最大の違いは高周波数(高めの音)の記録されている範囲だ。CDでは22.05kHzまでの音しか記録されていないが、レコードには当たり前のように50KHzを超えるような高周波が刻み込まれている。人の声によっては100KHz以上、時には200kHzといった高周波数の音で音楽は成り立っている。

 数年前から、SACDスーパーオーディオCD〉なるものが登場したが、これは、CDと同じサイズの120mm光ディスクに、オーディオデータをCD以上の高音質で記録したものである。但し、通常のCDプレーヤーやパソコンなどでは再生出来ないので、専用のSACDプレーヤーが必要となる。〈ちなみに私は所有しています〉まだソフトも少ないが、確かに音が豊かになったように思うが、いわゆるプラシーボ効果〈偽薬(本当は薬ではない成分)を投与したにも関わらず、症状が回復したり和らいだりする現象〉みたいな事で『いい音に違いない』という強い思い込みからくる錯覚なのかもしれない。

 またちまたでは、ハイレゾ音源なんてものも出てきたが、こちらはデジタル音源でありながら、レコード〈アナログ〉並みの周波数までカバーしてるそうだ。私はまだ聴いたことがないが、多分違いは判らないだろう。

 オーディオは機材にお金を掛ければ、いい物が揃えられ、よりいい音で聴ける。究極は、真空管アンプで「温かみのある、柔らかい音色」なんて世界にのめり込んでしまう。しかしながら、音の温かみとか柔らかさなんていう超抽象的な表現で、本当に理解できているのだろうか。

 私は、プラシーボ効果によるところが大きいと思う。勿論、先のアナログ・レコードの方が理論的にも広範囲の音を収録している訳だし、通常人間の聴こえない範囲の音域までカバーしているのだが、通常聴こえないのであれば収録する意味もないとも思える。だからCDではその音域をカットしているのだ。

 結論からすると、本人がいい音だと思っていればそれでいいのだ。高額を投資するもよし、とことん音質を追求するもよし、本人が聴きたい音楽を楽しめればそれでいいのだ。

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第203話 死刑囚の冤罪は国家殺人

序文・裁判官も人間だから間違いも起こす可能性がある

                               堀口尚次

 

 最近テレビで立て続きに「死刑囚の冤罪」ドキュメンタリー番組を観た。司法とて人間だ。絶対に間違えないとはいえない。ところが官僚には、無謬性(むびゅうせい)神話〈絶対に間違えがないという思い込み〉があると云われるが、こと司法に関しては思い込みでは済まされない。ましてや死刑判決に関しては、取り返しがつかないのである。また逆に、死刑が確定しても執行命令を出さない法務大臣もおかしいと思う。三権分立なのに、司法の上に行政府があるみたいだ。

 起訴されて、裁判で無罪が確定した場合は、被告人は勾留時間分の賠償請求が可能のようだ。死刑囚が再審請求後、無罪を勝ち取った場合の補償はどうなっているのだろう。

 今回の二つのドキュメンタリー共に、被告人は警察での過酷な取り調べに負けて、自白を強要されたものだったが、決定的な物的証拠がなくても、自白供述書があれば有罪にもっていけたようだ。取調室の可視化が問題になっている原因がよくわかった。

 それにしても、こと死刑判決に関しては、もっと慎重な裁判が行われているものだとばかり思っていた。これでは、例えば身代わりに死刑判決を受けようと思った人間が、嘘の自白をすれば有罪確定という流れになってしまうのではないか。勿論そんな簡単な図式ではないだろうが、どうも冤罪が生み出される背景には、警察や検察の捜査に対する思い込み〈筋書みたいなもの〉が激しくあるように感じた。そして、冒頭で述べた、警察・検察官僚の無謬性から来る逆戻り出来なくなってしまう変な慣習みたいなものがあるのではないか。

 番組では、死刑囚だった方が、再審請求から無罪判決を勝ち取って社会復帰を果たしたが、やはり世間からの風評被害・差別・偏見の眼差しを感じざるを得なかったことを伝えていた。

 私の考えだが、このようなケースの場合は、国家が責任を以てフォローしなくてはならないと思った。金銭面は当然ながら二度と取り戻せない貴重な時間を国家に奪われた人に対して、何らかの社会復帰のプログラムが必要ではないか。そして、私が強く思う事は、間違えて死刑判決を下した裁判官や、自白を強要させた警察の取調官や、裁判で有罪に導いた検察官らの責任問題だ。なんらかの行政処分があってしかるべきだと思う。勉強不足なので継続勉強します。

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第202話 大久保利通の心中は西郷のみが知る

序文・大久保と西郷は郷友

                               堀口尚次

 

 大久保利通は、明治維新の元勲であり、西郷隆盛木戸孝允と並んで「維新の三傑」と称される。初代内務卿で、内閣制度発足前の明治日本政府〈太政官〉の実質的・事実上の首相。

 薩摩藩郷中薩摩藩の武士階級子弟の教育法〉や藩校では、西郷隆盛と同じで、共に学問を学び親友・同志となった。薩藩主・島津斉彬や国父・島津久光に仕え、精忠組〈藩内組織〉の領袖として頭角を現していった。

 将軍・徳川慶喜大政奉還を果たすと、大久保は、岩倉ら倒幕派公家とともに、王政復古の大号令を計画して実行する。王政復古の後、参与に任命され、小御所会議にて慶喜の辞官納地を主張した。

 こうして徳川幕府が瓦解すると、参議に就任し、版籍奉還廃藩置県などの明治政府の中央集権体制確立を行う。西郷隆盛ら征韓派と対立し、明治六年政変にて西郷らを失脚させた。同年に内務省を設置し、自ら初代内務卿として実権を握ると、学制や地租改正、徴兵令などを実施した。そして「富国強兵」をスローガンとして、殖産興業政策を推進した。不平士族による佐賀の乱が勃発すると、ただちに自ら鎮台兵を率いて遠征、鎮圧している。首謀者の江藤俊平ら13人を、法によらない裁判で処刑した。さらに江藤を梟首〈晒し首〉しただけでなく、首を写真撮影して、全国の県庁で晒し者にした。明治11年、馬車で皇居へ向かう途中、紀尾井坂付近の清水谷にて6人の不平士族に殺害された。享年49歳。

 金銭には潔白で私財を蓄えることをせず、それどころか必要だが予算のつかなかった公共事業には私財を投じてまで行い、国の借金を個人で埋めていた。そのために死後の財産が現金140円に対して8,000円もの借金が残り、所有財産も全て抵当に入っていたが、大久保の志を知っていた債権者たちは借財の返済を遺族に求めなかった。

 明治六年政変から西南戦争と、郷友であった西郷隆盛と袂を分かつ事となったが、西郷死亡の報せを聞くと号泣し、時々鴨居に頭をぶつけながらも家の中をグルグル歩き回っていた〈この際、「おはんの死と共に、新しか日本が生まれる。強か日本が……」と呟いた〉。西南戦争終了後に「自分ほど西郷を知っている者はいない」と言って、西郷の伝記の執筆を歴史学者に頼んだりもしていた。また暗殺された時には、生前の西郷から送られた手紙を懐に持っていたとされる。明治新政府を強引に牽引してきた大久保利通だったが、その陰には郷友の西郷隆盛が常にあった。大久保利通の心中は、西郷隆盛にしかわかるまい。

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第201話 現存する奉安殿

序文・ここにもGHQの影が・・・

                               堀口尚次

 

 奉安殿(ほうあんでん)とは、戦前の日本において、天皇と皇后の写真〈御真影(ごしんえい)〉と教育勅語を納めていた建物である。正式名称は、「御真影奉安殿」である。

 御真影の下賜が始まった時期は、教育勅語が制定された後の1910年代であり、奉安殿の成立もその時期と推測される〈小学校の奉安殿建築は1935年頃に活発化〉。また学校への宿直も、この御真影の保護を目的として始められた面もある。

 四大節祝賀式典の際には、職員生徒全員で御真影に対しての最敬礼を奉る事と教育勅語の奉読が求められた。また、登下校時や単に前を通過する際にも、職員生徒全てが服装を正してから最敬礼するように定められていた。

 当初は講堂や職員室・校長室内部に奉安所が設けられていた。しかしこの奉安所の場合、校舎火災や地震などによる校舎倒壊の際などに御真影が危険に晒される可能性が高く、また実際に関東大震災や空襲、校舎火災の際に御真影を守ろうとして殉職した校長の話がいくつか美談として伝えられている。このため、さらに万全を期して校舎内部の奉安所は金庫型へ改められ、また独立した「奉安殿」の建築が進められた。前者の校舎一体型は旧制中学などに多く、後者の独立建築型は小学校に多く見られた。

 建築物としては様々なバリエーションが存在する。レンガ造りの洋風建築から旧来の神社風建築など、意匠を凝らした物が多い。小形ながら頑丈な耐火耐震構造、さらに威厳を損ねぬよう荘厳重厚なデザインとした。ただし、このような頑丈な小建築は「湿気がこもる」という短所を持っており、御真影に染みを作って学校が始末書を提出するハメになることもしばしばあった。

 日本が第二次世界大戦で敗れた年の1945年(昭和20年)12月15日、GHQ神道指令により奉安殿は廃止が決定。同月22日、文部省次官名による実施要領の発令、さらに1946年(昭和21年)6月29日付文部省次官通牒によって、全国の奉安殿を小学校から全面撤去する具体的な指示が出た。御真影は焼却されたほか、建物の多くは解体された。

 しかし、中央からの指示は「解体」や「破却」ではなくあくまでも「撤去」であるとして、移設や小学校の敷地から切り離すことで解体を免れた奉安殿が、21世紀の現在でもなお全国各地に存在している。使用用途は、神社の倉庫など地域の共同利用施設などで、北海道では1991年の時点で36棟が残存していた。

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※愛知県碧南市(筆者撮影)

第200話 三つの台湾人「原住民・本省人・外省人」

序文・約50年間日本が統治した台湾

                               堀口尚次

 

 台湾は、東アジアの台湾本島を中心とした国家、および中華民国の通称である。昭和20年、当時台湾を統治していた大日本帝国第二次世界大戦において無条件降伏したことを受け、台湾は澎湖諸島と共に当時中国大陸を本拠地とした中華民国の施政下に編入された。その後、党国体制を採る中国国民党国共内戦敗北で中華民国が中国大陸と海南島の国土を喪失したため、台湾は中国大陸から移転した中央政府〈台湾国民政府〉所在地、かつそれ以降も中華民国が実効支配する地域で面積の99%以上を占める事実上の本土 となった。そのため、「台湾」の表記は中華民国の通称または台澎金馬全体〈台湾島と諸島を含めた実行支配地の総称〉の名称としても使用される。

 台湾島は、漢民族が同島に移住し始めた17世紀における大航海時代のオランダ及びスペインの植民まで、台湾原住民が主に居住していた明王朝の残党である軍人がオランダを追放し、同島初の政治的実体である東寧王朝を設立した。その後「清」が同王国を破り、台湾島を併合した。その後日清戦争の結果として下関条約が締結されると、台湾島澎湖諸島は清から日本に割譲されて台湾総督府が統治する日本領台湾になった。

 第二次世界大戦後、連合国に降伏した日本軍の武装解除のために、蒋介石率いる中華民国・南京国民政府軍が約1万2,000人と官吏200余人が米軍の艦船から台湾に上陸して来た。だが、中華民国軍が台湾に来てから、婦女暴行や強盗事件が頻発した。更に行政公所の要職は新来の外省人〈日本から独立した以降に中国大陸から来た人〉が独占し、さらには公所と政府軍の腐敗が激しかったことから、それまで台湾にいた本省人〈台湾人〉が公所と政府軍に反発し、本省人の民衆が蜂起する事件が起きた。その際に、蔣介石は事件を徹底的に弾圧して台湾に恐怖政治を敷き、中国国民党の政治・経済・教育・マスコミなどの独占が完了した上で、台湾省政府による台湾統治を開始した。国民政府は台湾人の抵抗意識を奪うために、知識階層・共産主義者を中心に数万人を処刑したと推定されている。国民党が当時の資料の公開を拒み続けているため、正確な犠牲者数は不明で、犠牲者数には諸説ある。国民党軍兵士の強奪、官吏の腐敗ぶりには目に余るものがあり、国民党軍の占領後間もないころから、本省人〈台湾人〉は、新たな支配者に失望し始め、「犬が去って、豚が来た」と嘆くようになった。要するに、日本人はうるさく吠えても番犬として役立つが、中国人は貪欲で汚いという意味である。なお、日本国は日本国との平和条約〈サンフランシスコ平和条約〉や日華平和条約において台湾の領有権を放棄したものの、両条約ではいずれも台湾の中華民国への返還〈割譲〉が明記されていない。そのために現在では、台湾は中華民国によって占領されているだけであり、最終的な帰属国家は未定であるとの解釈も存在する。

 蒋介石は、中国大陸で毛沢東共産党に敗れ、台湾に逃げて来たのだ。そこで、共産主義拡大を拒むアメリカを味方にすることで、経済成長を成し遂げたのだ。中国大陸の『中華民国』は、毛沢東により『中華人民共和国』となり、台湾に渡った蒋介石は『中華民国の台湾国民政府』を樹立したのだ。

 中華民国という国名は、中華民国政府が「一つの中国を代表する主権国家」であるという認識に基づいている。そのために、1971年に国際連合アルバニア決議で、中華人民共和国が「全中国を代表する主権国家」として承認された後は、国際連合機関では「中華民国」と称するケースがなくなり、オリンピックなどのスポーツ大会や国際機関においては、『チャイニーズタイペイ』という名称が使用されている。これは、国際連合ならびに同加盟国の多くが、中華民国政府を「全中国を代表する主権国家」として承認しない一方で、台湾地域を実効支配する中華民国政府との非公式関係を維持していることによる。

 こんなぐあいに、台湾の歴史はかなり複雑で難解である。原住民や本省人外省人の関係もしかり、蒋介石統治時代の恐怖政治しかり、現在のチャーニーズタイペイの名称しかりである。

 唯一台湾にとってよかった時代は、日本の統治時代ではなかろうか。勿論初期段階の抗日武装運動に対しては、武力鎮圧で対応していたが、その後近代化を目指し台湾内の教育制度の拡充を行った。義務教育制度が施行され、台湾人の就学率は1943年の統計で71%とアジアでは日本に次ぐ高い水準に達していた。義務教育以外にも主に実業系の教育機関を設置し、台湾の行政、経済の実務者養成を行うと同時に、大量の台湾人が日本に留学した。

 台湾の併合にあたり、台湾人には土地を売却して出国するか、台湾に留まり帝国臣民〈日本人〉になるかを選択させた。1895年に台湾が大日本帝国編入された時、併合に反対する台湾住民は、「匪徒刑罰令」によって処刑された。その数は3000人に達した。また当時の台湾に多かったアヘン常習者への対策として、アヘン常習者には免罪符を与えて免罪符を持たない者のアヘン使用を禁止とした。当時の台湾は衛生状態が非常に悪く、多種の疫病が蔓延していた。特に飲み水の病原菌汚染が酷く、「台湾の水を5日間飲み続けると死ぬ」とまで言われていた。そこで日本人が近代的な上下水道を完成させた。また、台湾南部の乾燥と塩害対策として、ダムと用水路を建設している。

 当然に台湾にとって日本統治時代は、多大な痛みを伴った事は事実だが、多くの功績も残してるのだ。だからこそ、彼らは「犬が去って、豚が来た」と言ったのだ。私は、日本犬はそんな悪さをしなかったのだと信じたい。

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第199話 日本製の楽器の活躍

序文・世界のYAMAHA

                               堀口尚次

 

 YAMAHAに代表されるような日本の楽器メーカーは、世界で活躍しているミュージッシャン御用達の物も少ないくない。

 岐阜県可児市にある「ヤイリギター」は、アコースティック・ギター製作で世界的なブランドだ。元ビートルズポール・マッカートニーも愛用している。

「第161話 日本のバイオリン王・鈴木政吉」で書いた鈴木バイオリン製造から独立した矢入楽器製作所が始まりだ。私は、職務上で名刺交換した取引先の方の名前が「矢入」だったので、もしやと思い尋ねてみると、なんと矢入社長の親戚の方だったので驚いた記憶がある。

 「パール楽器製造」は、Pearlブランドで千葉県にある世界的なドラム・メーカーだ。エンドース契約〈企業がエンドーサー(契約者)である有名人と肖像権利用や商品化権等に関する独占契約を結び、それらを商品販売に反映させる〉として、デープ・パープルのイアン・ペイスつのだ☆ひろ、変わり種では加藤茶がいる。コロナ禍で、ドラム部品を改造したペダル式消毒スタンドも発売。

 「星野楽器」は、ドラムセットの「TAMA」ブランド〈創業者星野義太郎の妻である多満(たま)に由来している〉やエレキギターIbanezアイバニーズ〈かつてはイバニーズと呼称していた〉」などで有名な名古屋のメーカー。

使用者では、ドラムで元YMOの高橋幸宏、エレキでKISSのポール・スタンレーなどがいる。ジョージ・ベンソン・モデルのセミアコ・エレキは超有名。

 「ローランド」は、浜松の電子楽器メーカー。主ににシンセサイザー、デジタルピアノ、電子オルガン、電子ドラム、ミキサー、DJ機器、ギターアンプなど多岐にわたる。ヤマハやカワイとともに日本を代表する楽器メーカーの一つ。

 高峰楽器製作所は、岐阜県中津川市アコースティック・ギターメーカーで、ブランド名は「TAKAMINE」だ。使用者は、長渕剛イーグルスジョー・ウォルシュなど。名前は、本社がある地域の高峰山に由来。

 「鈴木バイオリン製造」は、愛知県大府市のバイオリン・メーカー。マンドリンも製造している。※詳細は以前に記述済。

 ピアノの「ヤマハ」や「カワイ」も本社は静岡県浜松に本社を置く、世界的な楽器メーカーだ。「ヤマハ」に至っては、楽器製造以外にもヤマハ発動機などエンジンに関わる分野にも枝分かれしていった。

 こうしてみると、愛知・岐阜・静岡と、なんと中部圏にほとんどが集約されている。日本の楽器産業と自動車産業は中部圏がになっているのだ。そもそも愛知県が物造り王国であることは旧知のことだ。

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第198話 北条氏の台頭と鎌倉13人合議制のはじまり

序文・「いざ鎌倉」は執権北条氏のため

                               堀口尚次

 

 今年のNHK大河ドラマで北条氏がクローズアップされるようだが、少し予習をしておこうと思い、筆を執った。

 平治の乱平安時代末期の源氏と平家の戦い〉で敗れ、同地に流されていた源頼朝(よりとも)の監視役であった北条時政桓武平氏の流れ〉は、自身が在京中の間に娘の政子が頼朝と恋仲になってしまい、周囲の反対を押し切って婚姻する。

 この後、源氏が平家を滅ぼして、頼朝は鎌倉幕府を樹立する。頼朝亡き後は北条政子との間に生まれた頼家〈長男〉と実朝(さねとも)〈次男〉が将軍を継いだが、北条時政〈将軍の祖父となった〉は、将軍の外戚として幕府内で強い影響力を持ち、初代執権となった。そして2代将軍頼家を追放し、修善寺に幽閉した上で謀殺。さらに、第3代将軍・実朝をも暗殺して娘婿を将軍に立てようとしたが、娘の政子や息子の義時に反対され出家させられた。

 2代執権義時から数代にわたって他の有力御家人を次々と排除し、執権政治を確立した。実朝が暗殺されると、義時は京都から藤原頼経(よりつね)を第4代将軍に迎え〈摂家(せっけ)将軍・上級の公家をお飾りで向かえる〉、将軍の地位を名目的なものとし、後鳥羽上皇の討幕運動である承久の乱に勝利し、幕府を安定させることに成功した。3代執権北条泰時御成敗式目を制定し、幕府の御家人支配をゆるぎないものにした。

 一方、政子は頼朝が鎌倉に武家政権を樹立すると御台所(みだいどころ)と呼ばれる。夫の死後に落飾〈出家〉して尼御台(あまみだい)と呼ばれた。法名を安養院(あんにょういん)といった。頼朝亡きあと征夷大将軍となった嫡男・頼家、次男・実朝が相次いで暗殺された後は、傀儡(かいらい)将軍として京から招いた幼い藤原頼経後見となって幕政の実権を握り、世に尼将軍と称された。

 源頼朝が急逝すると、嫡子の源頼家はわずか18歳で左中将に任じられ、朝廷から諸国守護の宣旨が下り、第2代鎌倉殿として頼朝の地位を継承した。頼家は側近らの補佐を受けて政務を行うが、訴訟を直接に裁断することが禁じられ、有力者13人の合議により決定されることになった。

 これが、頼朝の死後に発足した鎌倉幕府の集団指導体制である。頼朝の先例を覆す失政を重ねて御家人の信頼を失った頼家から親裁権を奪い、執権政治への第一歩になったと理解されてきた。こんな体制の中、執権の北条氏が台頭し鎌倉幕府を実質牛耳るようになっていった。

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