序文・献身的な施術
堀口尚次
杉山和一(わいち)〈慶長15年 - 元禄7年〉は、伊勢国安濃津〈現在の三重県津市〉出身の鍼灸師(しんきゅうし)。検校(けんぎょう)〈盲官=盲人の役職 の最高位の名称〉であることから「杉山検校」とも称される。鍼(はり)を管(くだ)に通して打つ施術法である管鍼(かんしん)法を創始したと伝えられる。鍼・按摩(あんま)技術の取得教育を主眼とした世界初の視聴障害者教育施設とされる「杉山流鍼治導引稽古所」を開設した。これには鍼医として仕えた江戸幕府第5代将軍・徳川綱吉の支援を受けた。
幼い頃、伝染病で失明し、江戸で検校に弟子入りするも生まれつきののろさや物忘れの激しさ、不器用さによる上達の悪さが災いしてか破門される。実家に帰る際に石に躓いて倒れた際に体に刺さるものがあったため見てみると竹の筒と松葉だったため、これにより管鍼法が生まれる。講談・落語『苦心の管鍼』の題材ともなった別伝では、鍼(しん)術(じょつ)を何とか上達させたいと江の島弁財天〈弁財天、江島神社〉で21日間の断食祈願に臨み、満願の日、木の葉に包まれた松葉が身体に触れたことで思いついたとされる。躓(つまず)いたとされる石が江島神社参道の途中に「福石」と名付けられて名所になっている。東洋鍼灸専門学校校長で、杉山の生涯や鍼灸の歴史を研究する大浦慈観は、管鍼術は当時既にあった可能性もあるが、体系化して広めた功績は杉山に帰せられると評価している。
杉山和一の献身的な施術に感心した徳川綱吉から「和一の欲しい物は何か」と問われた時、「一つでよいから目が欲しい」と答えた。綱吉は〈本所一つ目〉の方1町〈約12,000平方メートル〉を和一に与え、同地屋敷内には江ノ島弁財天の分霊を勧請した弁財天社が祀られた。 慶應2年には和一が修行した江の島岩屋を模した岩窟も造られている。 第二次世界大戦後、杉山自身を祀る末社との合祀が行われ、同地に江島杉山神社として現存する。
【私見】自らの盲人生活の大変さもさることながら、鍼術への並々ならぬ探求心はどこからきたのだろう。その名声は徳川将軍にまで届き、余程の腕前であったことは言うに及ばないが、私は技術だけではない何かしらの精神的支柱のようなものを感じる。江の島弁財天での断食祈願で得た、「霊験あらたか」な何かを掴み取ったのではなかろうか。いささか非科学的ではあるが、昔から「病は気から」というように、肉体と精神の結びつきは歴然と存在するのだ。