ホリショウのあれこれ文筆庫

歴史その他、気になった案件を綴ってみました。

第363話 幻の大府飛行場

序文・今も長い直線道路が残る

                               堀口尚次

 

 大府飛行場は、かつて愛知県大府市東海市にまたがる地区にあった飛行場である。別名:知多飛行場。現在の知多半島道路 大府東海インターチェンジの北側一帯に展開していた。

 零式艦上戦闘機を代表とする数々の航空機製造で名をはせた三菱重工名古屋航空機製作所は、古くから名古屋市の大江工場に生産拠点を設けていた。当時三菱による生産機の輸送は、大江工場で作った機体を牛車・馬車・トラックに分載し、岐阜県各務原飛行場に運ぶという非能率で非合理な方法に頼っていた。三菱は大府町と隣接の知多郡上野町〈現東海市〉にまたがる丘陵地帯におよそ570万坪の土地を取得し、「知多飛行場および知多工場」として起工式を挙行している。この土地の買収には当時の酒井町長をはじめ、町議会の労に負うところが大きかった。知多丘陵地の山を削り、谷を埋める大工事であった。建設にあたって知多郡愛知郡碧海郡などの各種団体、町村奉仕団、中国捕虜を使役して、スコップ・一輪車・モッコで日々数千人で造成したが、遅々として進まなかった。なお、勤労奉仕に対し軍当局から若干の謝礼金が出された、とあり、全くの無償労働ではなかったようである。

 昭和19年12月7日、突如として当地方を揺るがした東南海地震により、三菱重工業名古屋航空機大江工場は大きな地割れで工場施設、組立治具等が破損し、工場は麻痺状態に陥った。それに加えて、同月18日にはB29の爆撃により人的被害はもちろん、工場の中枢部が壊滅的打撃を受け、急遽当時の大府町に疎開が始まった。そして終戦の昭和20年8月15日。大府飛行場には何機もの四式重爆撃機「飛龍」が残っていた。昨日までの活気はなくなり、誰もが虚脱感に襲われていた。工場長は飛行機を飛ばすことを思いついた。連合軍はまだ進駐していなかった。警察官や消防団員、飛行場作りに力を貸してくれた近くの人たちを乗せた「飛龍」は、連合軍司令部から飛行禁止命令が出るまでの10日間、知多の上空などを飛行した。その後、連合軍司令部は飛行機の焼却処分を命令。作業者の手で、部品は大鉈で砕かれ、完成機体はガソリンがかけられて、焼却処分された。ここに大府飛行場における航空機生産も終わりを告げることになった。こうして幻の大府飛行場は、今でも滑走路の面影を残している。

 

第362話 名鉄終点駅踏破シリーズ・岐阜羽島

序文・思い出は春雨と共に

                               堀口尚次

 

 6月15日に表題のシリーズその第10段として、岐阜県羽島市名鉄新羽島駅を目指して、自宅最寄り駅の常滑(とこなめ)線の聚楽園(しゅうらくえん)駅から出発しました。親父が名古屋鉄道の株主であることから、どこまで乗っても無料の株主優待切符があり、その期限が6月15日だったので、小雨の降る中あえて慣行しました。

 神宮前駅〈有名な名古屋市熱田神宮〉で岐阜行き特急に乗り換え、笠松駅〈名馬オグリキャップ輩出の笠松競馬場近く〉で竹鼻線に乗り換え鈍行(どんこう)〈各駅停車の普通電車〉で終点を目指します。この竹鼻線は元々は羽島市の南部まで伸びていましたが、赤字路線であることから廃線となり、途中から羽島線として新幹線の岐阜羽島駅まで枝分かれして生き残りました。

 新羽島駅に降り立つと小雨の舞仕切る中、大野伴睦(ばんぼく)〈新幹線の駅として羽島駅を誘致した地元出身の大物政治家〉の銅像を見て、少し早いが新幹線の駅の構内で昼食にしようとしたが、いかんせん一軒も食事をする店がないという事態に遭遇。大野伴睦が知ったら嘆き悲しむだろうに・・・。仕方なく近隣の飲食店を探しながら傘を指してとぼとぼと歩き出しました。

 実はこの羽島市は、私が20歳後半の頃に仕事で3年程度赴任していたところであり、見渡す風景は懐かしいところばかりだが、なにせ30年以上も昔のことなので当時の面影がかなりなくなっており寂しさと時の流れを感じざるを得ませんでした。そうこうしている内に当時よく呑みに来ていた居酒屋養老の滝があった辺りの餃子の王将で昼食をとった。

 その後は、私が約3年務めた職場〈小売店舗〉を訪れたが、当然ながら当時から勤めている従業員はいるはずもなく、ただただ店内を見渡していると昔の思い出が走馬灯のように蘇ってきた。そして店を後にすると、当時店の同僚や上司とよく行ったスナックを思い出し、すぐ近くだったので行ってみると、なんと!あるではないか!今でも営業している外観だった。当時の思い出として、先にスナックを出る上司が私に小声で「ボトル入れといたからな」という粋なはからいが懐かしい。

 その後は、近隣のお寺や神社を少しだけ見て、最寄り駅から帰路に着きました。約2時間の小雨散策でしたが、懐かしさと思い出に包まれた良き時間を過ごすことができました。まだまだ名鉄終点駅踏破シリーズは続くのだ。

 

第361話 名古屋に伝わる宮本武蔵

序文・武蔵は通称、諱は玄信。

                               堀口尚次

 

 宮本武蔵は、江戸時代初期の剣術家、大名家に仕えた兵法家、芸術家。二刀を用いる二天一流兵法の開祖。京都の兵法家・吉岡一門との戦いや巌流島での佐々木小次郎との決闘が有名である。

 名古屋には、「宮本武蔵の碑」なるものが、二カ所に伝承されている。

 名古屋市昭和区の新福寺〈半蔵坊〉にある教育委員会が設置した立札には以下のように記されていた。

『武蔵の碑は、ここ新福寺と南区笠覆寺笠寺観音〉の二カ所にあるが、当寺のものは「新免政名供養碑」と呼ばれ、寛政五年〈1793〉円明流を伝えた左右田邦俊五代の門弟市川長之がその門人と共に、武蔵百四十九年忌の法要を営んだときに建てたものである。正面に「新免政名之碑」とあり側面に燈外和尚が武蔵の履歴などを記し、末に三言二十句の銘を付している。碑に刻まれた文章は漢文で書かれているため解読することが非常に難しい。』

 名古屋市南区のホームページには以下の説明文があった。

二天一流兵法の祖として有名な剣豪・宮本武蔵は、播磨国(今の兵庫県)に生まれ、各地を回りながら修行を重ねたと言われていますが、その足跡をたどると、尾張城下、現在の南区に滞在していたこともあるようです。武蔵は、南区笠寺にある東光院を宿坊にしていたと伝えられています。また、笠覆寺(笠寺観音)には、武蔵の弟子によって建立された顕彰碑があります。宮本武蔵尾張を訪れた時期は、巌流島の決闘から10年以上が過ぎた寛永7年(1630年)以降だと言われており、滞在期間は、数ヶ月とも数年とも言われています。当初、武蔵は将軍家の兵法指南役を目指していましたが、将軍家には既に柳生宗矩が仕えていたこともあって志を果たせず、それなら尾張徳川家の兵法指南役を目指そうと決め、尾張を訪れました。東光院に滞在したのはこの頃のことで、一説には、東海道沿いを鳴海から笠寺に来る途中で何者かの闇討ちに遭い、東光院に身を寄せることになった、とも言われています。』

 私は過日上記の二カ所を訪ね、剣豪の縁(えにし)を体感してきた。

 

第360話 闇深ければ暁近し

序文・心に刃を立てて忍ぶ

                               堀口尚次

 

 だいぶ昔に、「朝まで生テレビ」で公明党の議員が討論中に「闇深ければ暁(あかつき)近し・・・」と言って、司会の田原総一朗から「そんな呑気なこと言ってる場合じゃない!」と突っ込まれていたのを思い出した。

 この言葉は、創価学会池田大作の著書・人間革命に出てくようだが、「困難が大きければ大きい程、その困難からの出口に近づいているということ」を意味するようで、何事も諦めたら御終いであり、逆境に打ち勝ってこそ道は開けるもの的に私は解釈した。実際の著書には『いざ困難に出くわし、窮地に立たされると、“もう駄目だ”とあきらめてしまう。しかし、実は、困難の度が深まれば深まるほど、もう少しで、それを乗り越えられるところまできているんです。闇が深ければ深いほど、暁は近い』と書かれているようだ。

 また山岡荘八歴史小説徳川家康」には『人生には又は、この世の中では、非常に諸問題が多すぎます。しかし、一つ一つ解決して行くごとに、人間は偉くなるし、成長し出来あがって行くのです。自分の身の回りの出来事を、何もしないで避けるような事を常に心がけている人は、人間として成長を妨げていることなのです。「闇深ければ、暁近し」なのです。』と書かれている。

 広宣流布(こうせんるふ)は、法華経の教えを広く宣(の)べて流布すること。日蓮系各派では、この語を「日蓮(自派)の教えを広める」という意味で用いている 。創価学会池田大作・名誉会長は、日蓮上人の教えを実践すべく、広宣流布を通じて深い闇の中でもがき苦しんでいる人々を折伏(しゃくぶく)悪人・悪法を打ち砕き迷いを覚まさせることし、暁の方向へ導いて行ったのだろうか。

 しかし実際には、そう簡単なことではなく、深い闇の真っ只中にいる本人は、

うちしおれており、出口の暁などかけらも見つけられないものだ。出口の暁は見えれいるのに見つけられないのだ。「うろうろする」という言葉があるが、仏教では「有漏有漏する」と書く。「漏」とは心の汚れを表し、広い意味での煩悩をさす。煩悩に惑わされている様子を有漏有漏するというそうだ。

 人間には煩悩があって当たり前。煩悩がなければ深い闇に迷い込むこともなく、光明の暁もあらわれないのだ。

 私は、折伏される前に、自らの力で迷いを断ち切り暁を見つけたいと思っている。自分自身の心に刃を立てて、克己(こっき)の精神を養いたい。

日蓮上人の法難の絵図

第359話 生活保護「扶養照会」

序文・民法の義務が皮肉な結果に・・・

                               堀口尚次

 

 生活保護受給の審査に「扶養照会」なる存在があることを、テレビのドキュメンタリー番組で知った。その問題点について調べてみた。

 生活保護は、国や自治体が「健康で文化的な最低限度の生活」を日本国民に保障するためとして設けている公的扶助制度。日本国憲法第25条や生活保護法の理念に基づき、生活に困窮する国民に対して、資力調査を行いその困窮の程度によって、要保護者に必要な扶助を行い、最低限度の生活を保障するとともに、自立を促すことを目的とする。平成24年から生活保護への総合的な見直しが決まり、不正受給への厳格な対処、生活扶助や医療扶助等の給付水準適正化、保護世帯の就労促進、就労困難者への別途支援制度構築、正当な理由なく就労しない者への厳格対処することとなっている。

 保護の実施機関は、知れたる扶養義務者が民法の規定による扶養義務を履行していないと認められる場合において、保護の開始の決定をしようとするときは、厚生労働省令で定めるところにより、あらかじめ、当該扶養義務者に対して書面をもつて厚生労働省令で定める事項を通知しなければならない。ただし、あらかじめ通知することが適当でない場合として厚生労働省令で定める場合は、この限りでない。①当該扶養義務者が以下のものである場合・被保護者・社会福祉施設入所者・長期入院患者・主たる生計維持者ではない非稼働者(いわゆる専業主婦・主夫等)・未成年者・概ね70歳以上の高齢者など②要保護者の生活歴等から特別な事情があり明らかに扶養ができない(以下、具体例)。・当該扶養義務者に借金を重ねている。・当該扶養義務者と相続をめぐり対立している等の事情がある。・縁が切られているなどの著しい関係不良の場合。なお、当該扶養義務者と一定期間(例えば10年程度)音信不通であるなど交流が断絶していると判断される場合は、著しい関係不良とみなしてよい。等③当該扶養義務者に対し扶養を求めることにより明らかに要保護者の自立を阻害することになると認められる者・夫の暴力から逃れてきた母子・虐待等の経緯がある者 等 以上の条件に該当してると判断された場合、生活保持義務関係者(夫婦及び中学3年以下の子に対する親)以外に対する照会は不要となり、生活保持義務関係者に対しては、関係機関等に対する照会のみとなる。民法の「直系血族及び兄弟姉妹は互いに扶養をする義務がある」が手かせ足かせだった。

 

第358話 サカキとシキミ

序文・神前と仏前

                               堀口尚次

 

 サカキは、モッコク科サカキ属の常緑小高木。日本神道においては、神棚祭壇に供えるなど神事にも用いられる植物古来、植物には神が宿り、特に先端が尖った枝先は神が降りるヨリシロとして若松やオガタマノキなど様々な常緑植物が用いられたが、近年は身近な植物で枝先が尖っており、神の依り代にふさわしいサカキやヒサカキが定着している。家庭の神棚にも捧げられ、月に2度、1日と15日に取り替える習わしになっている。神棚では榊立を用いる。

サカキは神仏に捧げる常磐木の代表樹で、結婚式、安産祈願、お宮参り、七五三などの祝い事の際に、神へ奉納する玉串に使われる。神社では、サカキが供花とされ、境内にサカキがあると、小枝におみくじが結ばれるのを見かける機会も多い。

 シキミは、マツブサ科シキミ属の常緑小高木。アニサチンなどの毒を含み、特に猛毒である果実が中華料理で多用される八角に似ているため、誤食されやすい危険な有毒植物である。ときに仏事や神事に用いられ、しばしば寺院墓地に植栽されている。シキミはしばしば仏前や墓前に供えられる 〈特に関西地方〉。また精油を含んだ葉や樹皮は、抹香や線香の原料として利用される。これらは、シキミが有毒であり独特の香りをもつため、邪気を払う力があると考えられていたことに由来する。また古くは、遺体を土葬した墓の周りにオオカミなどの野獣が嫌うシキミを植えることで、屍を守ったともされる。

 静岡県富士宮市大石寺が総本山の、日蓮大聖人の仏法を教えとする日蓮正宗では、シキミが特に重要視されている。日蓮正宗の経典である「法華経」には、「木樒(しきみ)」としてシキミについて説かれていることから、多くの宗教がお墓や仏壇に花を供える中、日蓮正宗では花ではなくシキミを供え色花がその美しい色を変えやがて散ってしまうことを無常と説き、シキミは常に緑が美しい常緑樹であることから、日蓮大聖人の過去世・現世・未来世、さらに遠い未来世にまで渡って変わらない命を意味する「常住不変」であることも解いてる。そのため日蓮正宗の葬儀では、来世に旅立つ仏となった人に永遠の命るため、祭壇に色とりどりの花は使わずに、シキミだけで飾り付ける。

サカキ

シキミ

 

第357話 「唐人お吉」こと斎藤きち

序文・内海海岸の残る一説

                               堀口尚次

 

 斎藤きち、 天保12年 ~明治23年は、幕末から明治期にかけての芸妓(げいこ)、酌婦、髪結、小料理屋店主。俗に唐人お吉の名で知られる。伊豆国賀茂郡下田の坂下町〈現在の静岡県下田市〉で出生といわれるが、一説には尾張国知多郡西端町〈現在の愛知県南知多町内海〉ともいわれている。

 斎藤きちの存在は、昭和3年に十一谷義三郎が発表した小説『唐人お吉』で広く知られることとなる。

 元来とくに身分が高い訳でもない一民間人にすぎなかった斎藤きちの経歴については、出生地を含め諸説あり、資料が少ない上に、後年の小説戯曲映画等で表現されたことさらに薄幸で悲劇的なフィクションの世界の「唐人お吉」像が、忠臣蔵八百屋お七の例にみられるようにさながら史実のごとく語られてしまっている可能性が高く、伝わる経歴の正誤を一概に断定する事は困難である。

 なお、当人の名前がフィクションの影響で「お吉」と表記されることが多いが、江戸期の下田奉行所の記録や町会所日記、明治期の戸籍上の当人の名前表記は平仮名で「きち」である。

 幕末、玉泉寺に駐留していたアメリカ合衆国駐日領事タウンゼント・ハリスは、長期間の船旅や遅々として進まない日本側との条約締結交渉のストレスも相まって体重が約18kgも落ちてしまい、吐血するほどに体調を崩していた。満52歳と当時としては高齢でもあり、ハリスの秘書兼通訳であるヘンリー・ヒュースケンが下田奉行所に看護人の派遣を要求した。日本側は男性の看護人を派遣することにしたが、ヒュースケンが自分とハリスにそれぞれ女性の看護人を派遣することを強硬に要求したことから、下田奉行所はハリス側はいわゆる「妾」を要求しているものと判断し、方々に交渉した結果、ハリスに「きち」を、ヒュースケンに「ふく」を派遣することになった。

 その後「きち」は解雇されるが、後の人生を、外国人の「妾」という偏見の中で生きることになる。そんなお吉の哀しい生涯をまとめたものが「唐人お吉」として、人々の機微に触れたのだろうか。唐人とは本来中国人をさすが、お吉の場合は外国人〈外国人の妾〉という意味合いで使われたものと推測する。