ホリショウのあれこれ文筆庫

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第897話 越中富山の薬売り

序文・置き薬

                               堀口尚次

 

 富山の売薬(ばいやく)とは、古くから富山県〈旧越中国〉を拠点としてきた医薬品配置販売業の通称である。「越中富山の薬売り」とも呼ばれる。

 薬種商の始まりは室町時代とされる。富山で薬種商が始まったのは室町時代後期、越中薬種商の唐人の座ができたことである。江戸時代初期から中頃にかけて丸剤(がんざい)〈固形薬〉や散剤(さんざい)〈粉薬〉を製薬する専業店が現れる。開業当時は薬種販売のみを行い、それから製薬業に移ったと思われる。

 寛永16年に加賀藩から分藩した富山藩は多くの家臣や参勤交代、江戸幕府から命じられた委託事業〈手伝普請など〉、生産性の低い領地といった要因で財政難に苦しめられていた。そこで富山藩は本家の加賀藩に依存しない経済基盤をつくるために産業を奨励した。その一つに製薬売薬商法があった

 江戸時代の初期に、富山藩第2代藩主・正甫(まさとし)が薬に興味を抱いて合薬の研究をし、富山では最も有名な合薬「富山反魂丹(はんごんたん)」が開発された。これが富山売薬の創業とされることが多いが、実際はこの頃、既に反魂丹は存在しており、生産の中心地は和泉国〈現在の大阪府南部〉であった。富山市に本社がある医薬品会社の広貫堂(こうかんどう)によると、正甫は腹痛の持病があったため胃腸薬の反魂丹に関心を持っており、富山へは岡山藩の医師から伝わっていたという。

 元禄3年に江戸城で腹痛になった三春藩主の秋田輝季(てるすえ)に正甫が反魂丹を服用させたところ腹痛が驚異的に回復した、とされる「江戸城腹痛事件」という巷談(こうだん)がある。このことに驚いた諸国の大名が富山売薬の行商懇請(こんせい)したことで富山の売薬は有名になった、とするが、この腹痛事件に史料的な裏付けは無い。ともあれ正甫は領地から出て全国どこでも商売ができる『他領商売勝手』を発布した。さらに富山城下の製薬店や薬種業者の自主的な商売を保護し、産業奨励の一環として売薬を奨励した。このことが越中売薬発生の大きな契機となった。

 中世以来、修験者は護符や牛王法印(ごおうほういん)を諸国を越境して配布することが認められていたことが知られており、八幡神社所蔵の『当山古記録』には、富山地方の修験者が諸国で売薬をしていたことを証明する記述がある。また、江戸時代の香具師(やし)は自らを修験者の後裔(こうえい)と自認し、薬種商売薬に近しい存在として売薬に職業的本質を求めていたことが知られている。たとえば、元禄期以後に薬種商松井屋源右衛門に連なるものと自称し、三都で芸の傍ら反魂丹を商っていた香具師集団、松井一家に伝わる伝説がある。浅草の香具師、松井源水所蔵の『越中富山反魂丹之記』によれば、松井氏の祖であり修験者だった松井玄長が立山奥の院に参籠していたところ、立山権現が顕現(けんげん)した一人の老人から薬草の調合法を教わったのが始まりという。立山信仰を司る修験者と、都市に出没する香具師の活動を富山藩が後押しした事が、富山売薬が発展した背景にあると考えられている

 江戸時代中頃になると売薬は藩の一大事業になり、反魂丹商売人に対する各種の心得が示された。この商売道徳が現在まで富山売薬を発展させてきた一因であるとされる。藩の援助と取締りを行う反魂丹役所、越中売薬は商品種類を広げながら次第に販路を拡大していった。藩が監督しているという信用と、使った分だけ後払いで代金を回収する「先用後利(せんようこうり)」という方式が後押しとなった。

 先用後利は「用いることを先にし、利益は後から」とした富山売薬業の基本理念である。創業の江戸時代の元禄期から現在まで脈々と受け継がれている。始まりは富山藩2代藩主の正甫の訓示「用を先にし利を後にし、医療の仁恵に浴びせざる寒村僻地にまで広く救療の志を貫通せよ」と伝えられている。

 創業当時、新たな売薬販売の市場に加わる富山売薬は、他の売薬と同一視されないような販売戦略を立てなければならなかった。当時は200年にわたる戦国の騒乱も終わり江戸幕府や全国の諸藩は救国済民に努め、特に領民の健康保持に力を入れていた。しかし疫病は多発し、医薬品は不十分だった。室町時代から続く売薬はあったものの店売りは少なく、薬を取り扱う商人の多くは誇大な効能を触れ回る大道商人が多かった。またこの時代、地方の一般庶民の日常生活では貨幣の流通が十分ではなかった。貨幣の蓄積が少ない庶民は、医薬品を家庭に常備することはできず、病気の都度、商人から求めざるを得なかった。

 こうした背景の下、医薬品を前もって預け、必要な時に使用し、代金は後日支払いの先用後利のシステムは、画期的であり、時代の要請にも合っていた

 「薬は原価が10%で利益が90%だ」という意味で「薬九層倍(くすりくそうばい)」とも揶揄されたのだが、利益が大きいこと、運ぶものが軽いことなどが先用後利を成功させた。