序文・忠臣蔵の隠れた名場面
堀口尚次
近日表題と同名の映画が公開されるそうだ。私はこの言葉を聴くと、どうしても長谷川一夫が大石内蔵助を演じた1958年の映画「忠臣蔵」の一場面を思い出してしまう。
大石内蔵助は東下りの際に「垣見五郎兵衛」という変名を名乗り、江戸へと向かっていた。しかしその途中で、本物の近衛家用人・垣見五郎兵衛と鉢合わせをし、絶体絶命の窮地に陥る。映画では、道中手形を見せろと迫られた大石が白紙の手形文を手渡すところで、大石の手に浅野家の家紋の短刀があることに気が付いた本物の垣見五郎兵衛が、目の前にいるのが吉良を討とうと人目を忍んでいる大石内蔵助であることを察し、大石に助力するため、自分が偽物の垣見五郎兵衛であることを詫び、本物の通行手形を渡す場面があるが、この時の大石のせりふ「武士は相見互い、落ちぶれてこそ人の情けは身にしみてありがたいもの」が泣けるのだ。
赤穂事件には「忠臣蔵」への演劇化による脚色も手伝って逸話や伝承の類が多く残っている。上述のものも有名な逸話ではあるが、伝承の域を出ていない。
大石内蔵助は江戸に入った際、実際に「垣見五郎兵衛」という変名を名乗っており、息子の主税には「垣見左内」という変名を名乗らせている。しかし上述したエピソードは史実ではない。戦後の忠臣蔵映画を調査した谷川建司によると、この逸話はマキノ省三監督が1912年の映画『実物応用活動写真忠臣蔵』を撮るときに歌舞伎の勧進帳を基にして役者の嵐橘楽のために作り上げたものであり、この時は「立花左近」の名称であった。史実に合わせて「垣見五郎兵衛」の名前を用いたのは松竹の1932年版の『忠臣蔵』がはじめである。
一方宮澤誠一は大正13年発行の『講談落語今昔譚』(関根黙庵著、雄山閣)を引き、この話は講釈師の伊東燕尾の「持ちネタ」で、のちに芝居にも脚色されたのだとしている。燕尾は明治33年に亡くなっているので、燕尾の講釈の方がマキノ省三の映画よりも早いことになる。
燕尾の講釈では、近衛家雑掌・垣見左内の変名を名乗る内蔵助が川崎の宿で本物の垣見左内に出くわす。仕方なく内蔵助は本名を書いた詫書を左内に渡すが、そこに内蔵助の名を見た左内は事情を察し、詫書を内蔵助に返してこの件を不問に付す。