序文・下級武士
堀口尚次
徒士(かち)は、徒歩で戦う士分格を持つ武士を指す。騎乗身分ではない。江戸時代には主君に仕える下級武士に当たる。
戦場では主君の前駆をなし、平時は城内の護衛〈徒士組〉や中間管理職的な行政職〈徒目付、勘定奉行の配下など〉に従事した。徒士は士分に含まれるので、士分格を持たない足軽とは峻別される。したがって近代軍制でいうと、下士官に相当し、兵ではない〈なお騎乗身分の侍=馬廻組以上 は士官に相当する〉。徒士・足軽による徒歩戦闘を徒戦(かちいくさ)と呼ぶ。
江戸幕府における徒歩組(かちぐみ)は、徳川家康が慶長8年に9組をもって成立した。以後、人員・組数を増やし、幕府安定期には20組が徒歩頭〈徒頭とも。若年寄管轄〉の下にあり、各組毎に2人の組頭〈徒組頭とも〉が、その下に各組28人の徒歩衆がいた。徒歩衆は、蔵米取りの御家人で、俸禄は70俵5人扶持。礼服は熨斗目・白帷子、平服は黒縮緬の羽織・無紋の袴。家格は当初抱席(かかえぜき)だったが、文久2年に譜代となった。
諸藩では概ね「徒士」と呼称しているが越後長岡藩では「小組」、飫肥藩では「歩行」と別の呼称をする藩もある。例えば柳河藩では延宝9年の史料に「御徒」の呼称が登場し、その後の史料では「御徒士組」や「徒士」と呼称されている。柳河藩の場合も幕府同様に蔵米知行で、知行は5人扶持から3人扶持であるが時に7人扶持や2人扶持もいた。また、飫肥藩での徒士〈歩行〉の石高は36石から6石までいる。徒士を統括する役職は柳河藩や越後長岡藩では「徒士頭」と呼称しているが、長州藩では「徒士総頭」と呼称している。
「御徒町(おかちまち)」は、江戸時代、江戸城や将軍の護衛を行う下級武士、つまり騎乗が許可されない武士である御徒〈徒士〉が多く住んでいたことに由来する。御徒町周辺に於いては長屋に住み禄〈現在の給与〉だけでは家計を賄い切れず内職をし生活していた下級武士を指す。
なお、現在は町名としては消滅し、台東区台東、および東上野の一部となっている。また、この地名は城下町であればどこにでもある地名でもある。