ホリショウのあれこれ文筆庫

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第183話 明治の元老・伊藤博文の最期

序文・かつての1000円札の英雄は、凶弾に倒れた。

                               堀口尚次

 

 伊藤博文は、初代・内閣総理大臣、その後三度の内閣総理大臣立憲政友会の初代・総裁、初代・枢密院議長、初代・貴族院議長、初代・韓国統監などを歴任した、日本の政治の中心に君臨し続けた大物政治家だ。

 吉田松陰の私塾である松下村塾に学び、尊王攘夷運動に参加したが、1863年には藩命により井上馨らとともにイギリスに密航して留学して開国論者となる。1864年にロンドンで四国連合艦隊長州藩攻撃の計画を知り、急遽帰国し、藩主毛利敬親に開国への転換の必要を説いたが、受け容れられなかった。同年幕府による第一次長州征伐に対する藩首脳の対応に憤慨した高杉晋作が起こした功山寺挙兵に参加。この藩内戦の勝利により藩主流派となり、藩政改革に参画するようになり、主に藩の対外交渉の任にあたった。

 明治維新後の1868年から政府に出仕し、外国事務掛、参与、外国事務局判事、初代兵庫県知事などを歴任した。1885年に太政官にかえて内閣制度を創設し、内閣発足以後の初代内閣総理大臣に就任した。その後は、憲法皇室典範貴族院令、衆議院議員選挙法の草案の起草にあたり、1888年に枢密院が創設されるとその議長に就任し、憲法草案の審議にあたった。1889年に日本最初の近代憲法明治憲法を制定した。

 日露戦争開戦には慎重だったが、日露戦争後の朝鮮・満州の処理問題に尽力し、1905年には初代韓国統監に就任。韓国の国内改革と保護国化の指揮にあたり、3度にわたる日韓協約で次第に韓国の外交権や内政の諸権限を剥奪した。伊藤は日本政府内では対韓慎重派であり、保護国化はやむなしとしたが、併合には慎重だったといわれる。しかし韓国民族運動との対立の矢面に立つ形となり、1909年に韓国統監を辞職した後、ハルビン駅において韓国の民族主義運動家の安重根に狙撃されて死亡した。この時、伊藤は「3発あたった。相手は誰だ」と叫んだという。安重根はロシア官憲にその場で捕縛された。伊藤は絶命までの約30分間に、側近らといくつか会話を交わしたが、死の間際に自分を撃ったのが朝鮮人だったことを知らされ、「俺を撃ったりして、馬鹿な奴だ」と呟いたといわれる。「伊藤倒れる」の報に朝鮮の人々は快哉(かいさい)〈胸がすく〉を叫び、安重根を英雄として称えたという。安重根単独犯行説以外にも、韓国併合強硬派による謀殺説もある。元老・伊藤博文といえども歴史の闇の歯車の一部だったのか。

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